自分がYouTubeのコメント欄や、法人の仕事を通じてやり取りする高校生・大学生・新社会人の中には、プライベートでは砕けた文体を使っていても、ビジネス上の連絡ではしっかりとした丁寧な文章を使いこなす人が多い。
「句点=怒っている」という認識も、あくまでSNSやカジュアルなやり取りの文脈において限定した話か、職場の上司に反発する文脈において文化の差異を武器化した特殊な事例と見ることができるだろう。
。がついていると怒っている?
筆者はフルリモートで働いており、テレビ局や出版社と面識のない相手とメールやチャットでやり取りすることが日常だ。だからこそ、テキストのみで誤解を生まない文章力や一定の配慮は必要だと感じる。
一方で、例えば子どもの登校班のLINEグループや保護者同士のやり取りなど、リアルな関係性が前提にあるやり取りでは、「マルをつけるかどうか」で相手の感情を推測するような場面はない。顔を合わせて会話したことのある相手であれば、たとえ「。」がついていても「怒ってる」とは思わない。そこにはリアルでのコミュニケーション実績や信頼関係があるからだ。
これに対し、ネット上での人間関係が中心の若者世代にとっては、テキストの細部から感情を読み取らざるを得ない場面もあるだろう。その感覚に理解を示す必要はある。だが、それは「句読点が悪」だということとはまったく別の問題だ。
年寄り扱いを怖がるほど年寄り
「年寄り扱いされたくない」という恐れから、無理に若者言葉を真似たり、新しいトレンドに飛びついたりする中高年もいる。しかし、トレンドに乗ることが目的化した時点で、それは本質から逸れてしまう。
むしろ、自分の判断や合理性を持たずに「とにかく若者に合わせる」こと自体が、老いへの恐怖心が全面に出ている“年寄りの発想”なのではないかと思う。
どれだけ若作りをしても、中高年は絶対に若者になれないし、もといなろうともしなくていい。必要なのは「その価値観は誰にとって、どの場面で、どんな意味を持つのか?」という文脈を読み取る力だろう。