黒坂岳央です。

昨今、メディアの記事やSNSの動画で「若者におじさん認定されるSNS作法」といったテーマをよく見かける。たとえば「LINEで長文は嫌われる」「。 は怒っている印象を与えるので控えたほうがよい」といったものだ。

こうした情報を目にするたび、違和感を覚える。まるで「若者に不快感を与える人=時代遅れの老害だから、無条件に新しい文化へ迎合せよ」、といった“同調圧力”が透けて見えるからだ。

筆者は時代の主役は若者と考えているし、実際に優秀な若者も多く、柔軟で創造性に富んだ彼らの価値観に学ぶべき点は確かに多い。しかし、だからといって何でもかんでも思考停止で若者文化に従うことが、本当に「多様性のある社会」と言えるのだろうか。

むしろ、それは多様性とは逆方向の、単一の価値観を絶対視する排他性ではないか?と感じてしまうのだ。

※本稿はオピニオン記事であるため、ピンポイントですべての主張を裏付ける大規模統計データなどは持ち合わせていない(統計によらない個人の意見がオピニオン記事なので)。一方的に批判を展開するのではなく、あくまで最近の論調への疑問に一石を投じる目的で書かれた。

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マルハラは本当に正しいのか?

「マルハラ(句点ハラスメント)」という言葉が話題になったのは、2024年後半から2025年初頭にかけてだった。Google Trendsでもこの時期に検索数がピークを迎えており、一部の人々がこの言葉に過敏に反応したことがうかがえる。

実際、筆者の周囲でも、ある日を境に句読点をまったく使わなくなった中高年が何人かいた。プライベートのチャットはともかく、ビジネスメールからも「。」が消えたのを見て、正直なところ違和感があった。おそらく、若者文化への配慮として行動を変えたのだろう。

だが、その姿はどこか滑稽にも映る。なぜなら、若者世代自身が文脈を使い分けているからだ。