こうした発見は、「忘れてしまった記憶でも痕跡自体は完全には消えずに静かに残存している」という新たな見方をもたらしました。

言い換えれば、忘却とは記憶自体の消去ではなく、単にその痕跡へのアクセス(手がかり)が失われている状態に過ぎないのかもしれません。

では、人間の脳でも同じことが起こっているのでしょうか?

大人のエピソード記憶(体験の記憶)についても、忘れてしまった出来事のエングラムが脳内に残り続けるのか、そしてもし残っているのなら忘れた記憶が私たちの行動に無意識的に影響を及ぼし続けるのか――この問いは長らく明らかになっていませんでした。

ヒトではマウスのような光刺激で記憶を「復活」させる実験はできませんし、人が忘れた記憶の痕跡を直接測定するのは容易ではありません。

そのため、この疑問に答えるには人間を対象とした巧みな実験デザインと高感度な脳計測が必要でした。

今回、スイス・ベルン大学のカタリナ・ヘンケ教授らの研究グループ(筆頭著者トム・ウィレムス氏)はこの難題に挑みました。

研究チームは、人間の海馬や大脳皮質に忘れた記憶の痕跡が残っていて、それが行動に無意識的に影響するかどうかを調べることを目的にしました。

そのために著者らは健康な若い男女40名を対象に、超高解像度の7テスラMRIによる機能的脳スキャン(fMRI)を駆使しました。

7テスラという非常に強力な磁場を用いるMRIでは信号感度が格段に向上し、海馬のような小さな脳領域でも細かな活動パターンの違いを検出できます。

この能力を活かして、時間経過に伴う記憶痕跡の変化やエングラム同士の類似度・差異を精密に追跡できるのです。

さらに今回の実験では、短時間で大量の情報を覚えさせ、その後30分後と24時間後にテストするという手法を取りました。

一度に多くの記憶を詰め込むと、それら同士が干渉しあって忘却が促進される(「干渉による忘却」)ことが知られているため、意図的に忘れやすい状況を作り出したのです。