以上の交友関係を通じて、工藤平助は蘭学や海外情勢に関する知識を蓄積した。特に、蘭学者たちとの交流は、平助の代表作『赤蝦夷風説考』の執筆に直接的な影響を与えたと思われる。ただし、平助自身が本格的に蘭学を修めた形跡は認められない。平助は物珍しい知識を広く浅く摂取する器用貧乏的な人物だったのだろう。この点、平賀源内に通じるところがある。

こうした工藤平助の幅広い交際を支えていたのは、莫大な財力である。大槻磐水の孫である大槻修二(如電)が明治期に記した平助の小伝(『南紀徳川史』所収)によると、平助は傍らに千両箱を置き、「これを持ち上げられる者がいたら進呈しよう」と豪語したという。江戸時代後期の儒学者である斎藤順治(竹堂)が記した平助の小伝(『事実文編』所収)は、平助が博徒の類であっても来訪を歓迎し、常に食客を抱えていたと記す。

工藤平助の蓄財の背景としては、長崎のオランダ通事で医師でもある吉雄幸作(幸左衛門・耕牛)との交友が重要である。平助の娘あや子(只野真葛)の随筆『むかしばなし』によれば、幸作は貴重な蘭書である『ドニネウスコロイトフウク』(レンベルトゥス・ドドネウスの『紅毛本草』)を送るなど、平助にヨーロッパの文物を紹介した。

平助はワインや酒器などの文物を蘭癖(オランダかぶれ)大名や富裕町人に売りさばき、巨額の富を得たという。吉雄幸作と工藤平助は手を組んで、ヨーロッパ商品の売買というビジネスに進出していたのである。

また平助は富裕者の訴訟を代弁して、多額の収益を得たという。これは平助の弁論能力が優れていたからというより、平助が政界とのパイプを持っていたことに起因しよう。平助は、田沼意次の側近である三浦庄司と親しかった。工藤平助もかつての平賀源内と同様に、田沼の賄賂政治に連なる「山師」であった。