加えて工藤平助は、医学を野呂元丈や中川淳庵から学んだ。野呂元丈は青木昆陽と共に、吉宗から命じられて蘭語を学んだ蘭学の先駆者である。中川淳庵は杉田玄白に医学書『ターヘルアナトミア』を紹介して、玄白らと共にその翻訳作業(『解体新書』、安永3年〈1774〉刊)に参加した人物である。
大槻玄澤(磐水)の長子、大槻玄幹が記した「磐水先生行狀記」によれば、工藤平助は青木昆陽の弟子である前野良沢とも交流を持った。前野良沢は『解体新書』の翻訳者として知られる蘭学者である。良沢の翻訳事業は、平助の海外への関心に影響を与えたであろう。
工藤平助より17歳年下の桂川甫周は、明和9年(1772)頃、築地に居住していた時期に、同じ築地にある平助の家に頻繁に出入りし、親密な関係を築いた。甫周は幕府の奥医師で、『解体新書』の翻訳にも携わっている。また甫周は、船医として来日したスウェーデンの医師・植物学者ツンベリから医学や植物学を学んでいる。平助は甫周を通じて西洋の学問や文物に触れたであろう。
工藤平助は安永9年(1780)に前野良沢のもとで大槻玄沢(磐水)と知り合った。玄沢は仙台藩の支藩一関藩の医師で、蘭学修行のために杉田玄白と前野良沢に弟子入りした。前掲の「磐水先生行狀記」によれば、安永9年(1780)、玄沢の遊学期間の終わりが迫っていることを良沢が惜しんでいるのを聞いた平助は、主君である仙台藩主伊達家を通じて一関藩主田村家に遊学延長を働きかけ、これによって玄沢の学問は大いに進んだという。
さらに天明6年(1786)、平助は本藩である仙台藩医への昇進を推薦するなど、玄沢のキャリア形成に大きく貢献した。これがきっかけで、平助と玄沢は親戚付き合いをするようになった。こうした平助の支援もあり、玄沢は『解体新書』の改訂や蘭学入門書『蘭学階梯』の著述など、蘭学者として大いに活躍することになる。
工藤平助と同じく仙台藩出身の林子平とは、子平が江戸に来た際には工藤家に逗留するほどの仲であった。『仙台人物史』によれば、子平が海防書『海国兵談』を執筆しようとするのを平助は諫めたが、子兵の熱意に動かされ、資金を提供し序文も執筆した。