いうまでもなく、士族が人口に占める割合は六パーセントに過ぎない。もちろん、士族の進学率は平民よりやや高いだろうが、たとえば、生徒の過半数になるというようなことはまずなかったはずだ。

さらに、江戸時代の殿様で地元の戦国大名出身は10家20藩ほどで、ほとんどが、外来者である。転封のたびにほぼ全員が引っ越ししてきたのであって、結婚などを通じての地元との交流もわずかだった。

つまり、生徒の先祖はほとんどが外来の武士によって支配された庶民であるし、別の県民性などをもっている。だから、藩政時代の歴史に否定的であっていいはずだが、藩校の後裔などと名乗る学校では、藩政への讃歌をたたき込まれる羽目になって、やがて、それが庶民まで含めた地域性になったのだから不思議なものだ。

典型的には、会津藩士は桜で有名な高遠から移ってきた、武田信玄にも仕えた信濃武士が主力で、会津魂というのは、信州人気質以外の何でもない。一方、会津の地の人は小原庄助さんに代表されるおおらかな福島県人であって、戊辰戦争の時も官軍に好意的だった。ところが、いまや、住民全員が白虎隊の子孫のように思いこむようになっているのだが、こうなった陰には日新館の流れと称する会津高校の存在が大きい。

逆に、新潟県の高田高校は、高田藩の藩校だった脩道館が私立になったり町立になったりしながら灯火を消さずに存続した珍しい例なのだが、校是は上杉謙信の「第一義」で、最後の殿様だった榊原さんの影は薄い。

福岡修猷館高校は、旧藩士たちが殿様から資金を引き出す口実に、藩校の名前を引き継ぐことを提案した。

熊本の濟々黌高校は藩校のような名前だが関係ないのだ。熊本藩には時習館という全国的に有名な藩校があった。濟々黌高校は、佐々淳行氏の祖父で代議士だった佐々友房という元熊本藩士が設立した私立学校を政治力で県に引き取らせたものだ。

【目次】 はじめに 伝統の名門校から躍進する注目校まで 第1章 東京・神奈川の名門高校 第2章 関西の名門高校 第3章 中部の名門高校 第4章 東日本の名門高校 第5章 西日本の名門高校