このために、廃藩置県の直前に藩が洋学校を設立してそれが引き継がれた旭丘高校のようなケースを別にすると、教育内容において連続性はほとんどなかったのである。だから、水戸でも弘道館という全国的にも有名な藩校があったが、水戸第一高校とは沿革的につながらない。旧藩士による私立中学として命脈を維持した米沢興譲館高などは、その名を引き継ぐにふさわしいが、これは、例外的な存在である。
むしろ、明治政府によって設立された近代的な中学校を、あとになって、旧藩校と関連づけ、その精神を引き継ぐことを標榜したケースが多い。たとえば、私の母校の滋賀県立膳所高校は、明治三二年になって滋賀県立第二尋常中学として発足したものなので、膳所藩校遵義堂とは校地が旧藩校だという以上には何の関係もない。
ただ、それでも、「その精神を引き継ぐ」という方針が新たに採り入れられたのである。いってみれば、旧藩士による公立学校ジャック、そうでなければ、新しい旧制中学による藩校の伝統ジャックである。
だが、私自身は、膳所藩士の子孫でないし、古老たちから藩政についてのあまりいい話を聞いた覚えはないし、歴史の本でも悪い話が取り上げられることが多い藩だから、膳所藩校の伝統を肯定的にとらえなければならない理由が理解できなかった。
藩校を議論なく引き継いだ高校というのはほとんどない。だが、なにがしかの意味で縁を主張するものも多い。そんななかで、校名に組み込んだり、あるいは藩校成立の日を創立としている高校も多いが、それは、名を引き継いだ側の主観的な判断によるものであって、引き継ぐのにふさわしいかどうかについて客観的な判断がなされているのではない。
極端には、秋田明徳高校のように、戦後の新設高校に泊をつけるために、藩校名を借用したというのもあるが、こういうこじつけは感心しない。
だが、この藩校を継承したという名乗りは、意外な波紋を生じさせた。それは、その旧制中学や高校の卒業生に、精神的に旧藩士の系譜を受け継ぐという意識を持たせたことである。