彼がワラキア公を務めた1448~1476年の間、ワラキア公国はオスマン帝国と対立関係にありました。

1462年のトゥルゴヴィシュテの戦いで彼は、約2万人の敵兵がいる陣地に夜襲をかけて全員を串刺しの刑に処して殺害します。

オスマン帝国のメフメト2世はその串刺しの山を目にして戦意を喪失し、ワラキアから撤退したという。

この事件をきっかけにヴラド3世は「串刺し公」とも呼ばれるようになりました。

日本で彼はヴラド・ツェペシュと呼ばれますが、このツェペシュはルーマニア語で「串刺しにする者」の意です。

ヴラドによる串刺し刑を描いたもの
ヴラドによる串刺し刑を描いたもの / Credit: ja.wikipedia

また串刺し刑は当時のキリスト教圏で最も卑しい刑罰に当たり、あくまで重罪を犯した農民に限られて行われるものでした。

ところがヴラド3世は自らの権威の絶対性を誇示するために、農民も兵士も貴族も見境なく、逆らう者は誰でも串刺しに処したのです。

他にも彼は有力貴族をパーティーに招待して酒宴を開き、油断したところを皆殺しにしたり、病気の流行を止めるためと称して、罪なき貧者や病人、ジプシーを建物に閉じ込めて放火したと伝えられています。

一説によると、ヴラド3世は生涯に8万人以上の命を奪い、その多くが串刺し刑で殺害されたという。

彼自身は1476年にオスマン帝国との戦いで戦死したか、あるいは敵対するワラキア貴族による暗殺で死んだと言われています。

彼の血塗られた人生は、まさにドラキュラのモデルとしては打ってつけだったでしょう。

そして今回、カターニア大の研究で、ヴラド3世の血に呪われた一面があったことが新たに示されたのです。

ヴラドは晩年に「血の涙」を流す奇病にかかっていた?

研究チームは2023年に、冷酷なヴラド3世を苦しめた病気があるとすれば、どんなものだったろうかと考えました。

それを確かめるべく、ヴラド3世が直筆で書いた3通の手紙を分析することに。