15世紀に実在したヴラド3世は、ブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』のモデルとなった人物です。
伊カターニア大学(University of Catania)を中心とする国際研究チームは2023年に、ヴラド3世が残した直筆の手紙からヒト由来の化合物を100種類ほど採取。
それを調べた結果、ヴラド3世は「血の涙」を流す奇病にかかっていた可能性が高いことが明らかになりました。
ヴラドは生涯に8万人もの命を奪う血塗られた一生を送りましたが、自らの体も血に呪われていたようです。
研究の詳細は2023年8月8日付で科学雑誌『Analytical Chemistry』に掲載されています。
目次
- 逆らう者は「串刺し」にしたヴラド3世の残忍な生涯
- ヴラドは晩年に「血の涙」を流す奇病にかかっていた?
逆らう者は「串刺し」にしたヴラド3世の残忍な生涯
ヴラド3世(1431〜1476)は、15世紀のルーマニア南部に存在したワラキア公国の君主です。
父は通称・ドラクル(ドラゴン公)として知られたヴラド2世で、1436年からワラキア公を務めていました。
そのため、その息子のヴラド3世はのちに「ドラクル(ヴラド2世)の子供」という意味を持つ「ドラキュラ公」の通称で有名になります。
現代では吸血鬼の代名詞のようになっているドラキュラの本来がドラゴンの子供なのは意外に思う人もいるかもしれません。
ただ当時、キリスト教では悪魔がヘビやドラゴンとして描かれており、ドラゴンと悪魔は同一視される傾向にありました。
そのためドラクルは「悪魔公」と解釈され、さらに息子であるヴラド3世も「悪魔の子」という見方を人々からされています。
ブラム・ストーカーが自身の小説の吸血鬼にドラキュラの名前を与えたのも、この悪魔の子のイメージがあったことが理由の一つです。

ここまでの説明だとヴラド3世が悪魔の子と呼ばれるのは誹謗中傷に聞こえますが、もちろん彼には、ちゃんと「悪魔の子」と呼ばれるだけの残忍さがありました。