このような人口激減に対して、「戦乱による流民が増えたことにより、戸籍で把握することのできない人が増えただけなのではないか」という反論もあります。
実際に三国時代は多くの流民が発生しており、戸籍上の人口と実際の人口でズレが生じていたということも多々ありました。
また天才軍師として知られている諸葛亮(しょかつりょう)は兵力不足に対して「領国内にいる流民に戸籍を与えた上で徴兵して、戦力を増強すればどうだろうか」と劉備に提案したしたことさえあり、当時から群雄たちが流民による人口のズレに悩まされていたことが分かります。
しかし中華全土で合戦が相次いでいた221年時点の人口が1400万人だったのに対し、三国鼎立の体制で魏・呉・蜀それぞれが比較的安定していった242年で1600万人、263年で1900万人、そして司馬炎(しばえん)が中華統一を成し遂げた280年には2100万人となっています。
こうした政治的に安定した時代の人口推移を見ると、三国時代に人口が激減し、その後なかなか回復しなかった状況が伺えます。
流民は戦乱が落ち着いてどこかに定住したら統治者によって戸籍に組み入れられることを考えると、流民による戸籍からの把握漏れは決して少なくはないものの、激減した人口(4人に3人)のほとんどが流民として中華全土を彷徨っていたわけではないことが窺えます。
人口的に見てあり得ない三国志演義の動員兵

余談ですが、三国志演義(中国の明の時代に書かれた長編小説、歴史書の「三国志」とは別物)では大量の兵士を動員して行われている合戦がしばしば描かれています。
具体的には曹操がライバルの袁紹(えんしょう)を破った官渡の戦いでは曹操が10万 、袁紹が70万の兵を率いたとされており、孫権と劉備が曹操を破った赤壁の戦いでは孫権と劉備が3万、曹操が100万の兵を率いたとされています。