また農地が戦場になった場合は穀物を収穫することができず、ただでさえ少ない収穫量をさらに減らすことになったのです。

さらに三国時代に相次いで起こった天災も人口減の理由となっています。

歴史書を見ると、後漢末の194年には長安周辺(現在の西安)で飢饉が発生し、死人の肉を食べて飢えをしのぐものが発生したという記述があります。

都市部でも多くの人々が飢えていた
都市部でも多くの人々が飢えていた / Credit:canva

また、197年には天候不順による干ばつやイナゴの発生、213年には大洪水や疫病が続発しました。

これらの災害によって、毎年のように天災による死者が続出したのです。

三国時代は戦乱の時代ということもあり、戦乱による死者が多い印象がありますが、飢饉や災害による犠牲者も多く、特に幼児や高齢者がその影響を受けやすかったことがうかがえます。

戦乱や飢饉による犠牲者が多く、特に幼児の死亡率が高かったことは、人口構成に大きな影響を与えました。

仮に戦争によって人口が減った場合、その人口の回復は比較的早く進むことでしょう。

なぜなら戦闘による死者は基本的には徴兵された成人男性であり、当時は今ほど厳格に一夫一妻制が敷かれていたわけではないので、女性の人口が減らない限り生き残った男性が複数の妻を持つことによって子どもを増やし続けることはできます。

しかし、自然災害による犠牲者は幼児や老人が中心であり、その回復は非常に遅くなりました。

というのも幼児が多く命を落とした場合、同世代内の人口の母数自体が少なくなります。

よってその幼児たちが成人して子どもを産んだとしても、自然災害前の人口まで回復させることは難しいのです。

このようなこともあって、三国時代に減少した中国の人口は、唐の時代になるまで元の人口に回復することはありませんでした。

戦乱で人口集計が正確ではなかっただけ?

清代の『宮殿蔵画本』に載る諸葛亮の絵、軍師としてだけではなく政治家としても能力を発揮した
清代の『宮殿蔵画本』に載る諸葛亮の絵、軍師としてだけではなく政治家としても能力を発揮した / credit:wikipedia