上記「暦日表」には、ペリリュー島につき「その勇戦が硫黄島戦の手本となった」とあるが、その戦いが44年9月15日から11月27日までの約2ヵ月半に及んだことが書かれていない。その理由を想像するに、実は生還者がいた硫黄島のそれを「大本営発表」としたのと同じく、生き残った30数名の者が2年もの間、ペリリューに潜んでいた「史実」への配慮からではなかろうか。
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長い前置きになった。目下、自民党西田昌司議員の「ひめゆりの塔」に係る発言が物議を醸している。そこで筆者は、沖縄の「ひめゆり平和祈念資料館」の記述約2200字を読み、西田議員の約42分の発言をYouTubeで視聴し、併せて西田発言に関する石破答弁も聴いて、文字起こしした。その結果、やはり石破首相に「戦争検証」はさせられない、との意を改めて強くした。
先ずは約42分間の西田発言。その中で「ひめゆりの塔」に触れた個所は、31:30から32:20までの約1分間、そしてそれ故「あの戦争は一体何だったのか、というとこに行きつく」との発言が32:41から34:05まで続く。文字起こしは以下のようだ。(以下、太字は筆者)
31:30〜32:20:特に沖縄の人に私をお願いしたいのはですね、私もなんか「ひめゆりの塔」ですかねえ、なんかあの何十年か前にですね、まだ国会議員になる前でしたけれども、あのお参りに行ったことあるんですけれども、あそこあの今どうか知りませんけどひどいですね。あの「ひめゆりの塔」で亡くなった女学生の方々がね、沢山おられるんですけれども、あの説明の仕振り、あれ見てると要するに日本軍が、ね、どんどん入ってきて「ひめゆり」のあれが、あの死ぬことになったんだと。そしてアメリカが入って来てね、沖縄は解放された、と、そうそういう文脈で書いてるじゃないですか、あのあそこは。そうするとね、これ一旦ほんま あれで亡くなった方々本当に救われませんよ、本当に。だから歴史を、あの歴史を書き換えられると、こういうことになっちゃうわけですね。