■日本最大規模の百姓一揆、意外な結末に…

今回の取材を快諾・対応してくれたのは、遠野市文化課の市史編さん室。

標識「百姓一揆」の詳細について尋ねると、担当者からは「この一揆は、日本最大規模の百姓一揆と言われる『三閉伊一揆(さんへいいっき)』のことです。三閉伊一揆は1847年(弘化4年)、1853年(嘉永6年)と2回起きていますが、標識の一揆は1回目の『弘化4年一揆』を指しています」との回答が得られた。

「一揆」と聞いて、豪農や富豪商人の家を襲う「打ちこわし」など、荒っぽい方法を連想した人も多いだろう。しかし、この三閉伊一揆は、そんな一揆の常識を覆すような内容だったのだ。

日本一攻撃力が高い標識、強すぎる4文字に目を疑うも… 意外な正体が「市民の誇り」と判明
(画像=『Sirabee』より引用)

その経緯について、担当者は「弘化4年の冬、三陸沿岸の野田、宮古、大槌地域の百姓約1万2千人が、重税の減免と盛岡藩の政治への不信を訴えて一揆を起こしました。その際、盛岡藩の城下の盛岡ではなく、遠野南部氏が治める遠野領の城下町の手前の河原に押し寄せました」と、説明する。

三陸の一揆勢は早瀬川の河原に野営し、盛岡藩に対して新税の撤回など26か条を要求。その際、百姓たちは不信感から盛岡藩から派遣された役人とは直接交渉せず、盛岡藩世襲筆頭家老を務める遠野南部家と交渉を行うこととした。

日本一攻撃力が高い標識、強すぎる4文字に目を疑うも… 意外な正体が「市民の誇り」と判明
(画像=『Sirabee』より引用)

一揆勢が交渉している間、遠野の町人たちは一揆勢に炊き出し飯や味噌、炭や薪を提供。そして一揆の要求が通り、百姓らが遠野を引き上げる前に「遠野の町を見物したい」と告げたところ、なんと遠野南部家は一揆の百姓1人ずつに米1升、銭50文を与え、一揆勢を感激させたと言う。

その結果、一揆勢は遠野の城下町に入ると酒屋や食べ物屋に押し掛け、お土産を買って…と、町はたいそう賑わい、一揆衆は無事に三陸沿岸に帰っていったのだ。

「日本最大級の百姓一揆」の押し寄せというとんでもない危機を、遠野南部家の殿様や侍たちの働き、そして遠野の町人の対応が、一切の紛争も起こさず、解決に導いたワケである。

日本一攻撃力が高い標識、強すぎる4文字に目を疑うも… 意外な正体が「市民の誇り」と判明
(画像=『Sirabee』より引用)

遠野市の担当者は「このことは、遠野の人々に長く自慢話として伝えられています」「そのため、この標識は決して遠野の人々が起こした百姓一揆ではなく、三陸沿岸の百姓一揆と向き合い、助けた歴史を伝えるものなのです」ともコメントしていた。

つまり、今回話題となった標識は、そんな「百姓一揆」が起こった舞台を示すだけでなく、遠野市民の誇りそのものであったと判明したのだ。