加えて、飲み物以外での「水」(溺れる対象としてとか)の登場回数が、『風の歌』の1回から131回へと爆増している。

いまや村上の小説は水なのだ。ビールは嗜好品で風俗の一端をになっている。これに対して水は人間の生存に必要な無味無臭の液体だ。ビールから水へという変化は村上の作品の乾いた抒情をたたえる都市小説から、人間存在の深淵におりる現代文学への変化を象徴している。

ちなみにこれをウィスキーについてみるとバーボンからスコッチ。『ねじまき鳥クロニクル』ではカティサークが大活躍する。なぜバーボンでないのかは謎。

幻冬舎文庫・第2巻、232-3頁

赤ちょうちんじゃなくてバーですよ、熱燗じゃなく洋酒ですよ、なPRが要らないくらい、普遍的な問いを小説のなかで考え始めたことが、「ビールから水へ」に表れたというわけ。それでもさすがに、なんでカティサークかは不明らしいけど。

先述のとおり、加藤さんがそんな評論を発表したのは、1996年。総計31名のゼミ生と、2年近くをかけての成果で、全員の名前が謝辞に残る。いまなら電子テキストを読み込ませれば、生成AIでもデータの数値を出すところまではいくだろう。

村上春樹の小説では、どんな飲み物が飲まれていますか?

と、訊けばいいわけだから。

では『村上春樹イエローページ』は、ぶっちゃけもう「AIに代替される仕事」なのか。そうじゃない点が、いますごく重要だ。