一方の米国は、特許制度を武器に技術の優位性と市場の囲い込みを実現してきた。日本はこれら両者の制度に“まじめに”従う形で、世界市場に対応してきた。
筆者が米国企業に勤めていた当時、現地の幹部たちは「ISO14000は知っているし理念には共感するが、我々は自社の環境管理システムを持っている」と述べていた。つまり、制度を理解した上で、自らの哲学と経験に基づく独自の方法論を採用していたのである。対照的に日本では、「欧州で売るにはISO取得が必須だから」との理由で、ISOをそのまま導入する企業が続出した。
こうした制度依存の姿勢は、短期的にはビジネス上の合理性を持つものの、長期的には主体性の喪失につながる。制度が要求する基準を満たすことが目的化し、制度そのものの意義や、制度を自ら設計するという発想は、置き去りにされてしまう。
4. 制度信仰の根源──文化的な背景と戦後の教育構造
このような制度への順応姿勢は、単に経済的合理性からくるものではなく、より深い文化的背景に根ざしている。
戦後日本は、「形式への忠実さ」「規範意識」「評価への適応」を重視する教育と官僚的社会システムを構築してきた。規格に従うことは「誠実さ」の証とされ、枠組みの中での最適化こそが「優秀さ」と評価された。
この構造の中では、「制度に疑問を持つこと」や「制度を改変しようとすること」は、しばしば逸脱や不安定要素とみなされてきた。結果として、多くの組織や個人が制度に“忠実に従う”ことを美徳とし、それを越えて創造的に制度を“変えていく”という発想が根付きにくくなった。
ISO14000や環境マネジメントの分野でも、取得や認証といった“結果”が重視され、そのプロセスや現場での意味づけ、継続的改善の精神が置き去りにされる例が後を絶たない。制度は本来、目的に向かって柔軟に設計されるべきものである。しかし日本では、制度が“目的そのもの”となりつつある。