そんな私が東京で嫌なものを挙げよと言われたらその一つに「首都高速道路」と申し上げます。シアトルが高速道路で分断されたように都心の高架の首都高は街を醜くしている最悪の構造物だと確信をもって申し上げます。例えば、若者や外国人が大好きな六本木。私にとってこの街は高校生の時から庭のようなところの一つだったのですが、夜の街以外の顔が思いつかないのは昼間の六本木が高速道路で分断されているからにほかなりません。首都高の下を走る六本木通りはいつも陰り、埃っぽく、無機質で優しさが全くありません。六本木に行くと「あぁ、首都高の向こう側かぁ」というメンタルバリアをいつも感じていました。首都高の向こうはまるでとなり街の意識なのです。

日本橋と首都高速道路 y-studio/iStock
同じことは渋谷でもいえます。青山通りの上の首都高は渋谷の街を南西方向に発展させなかった原因の一つだろうと察しています。街の向こうは首都高が邪魔して見えません。青山通りに面した首都高の向こう側にセルリアンタワー東急ホテルという渋谷ではトップクラスのホテルがそびえ建ちますが、残念ながら渋谷駅から見るとメンタルバリア故に認知度としてはホテルの格に対して明らかに下がります。
これは蛇足なのですが、渋谷は地形的に谷底にあたるわけですが、東急は谷底に高層ビルを林立させています。一方、バンクーバーや周辺都市の都市開発の基本は高層ビルの立地条件は地形的に高いところが有利になっています。つまり、土地の低いところには低い建物を、高いところには高い建物を許可するのです。その点を含め、私は渋谷の都市開発は昔からなじめず、なんでこんな街にしてしまったのだろうと残念に思っています。
首都高が景観の邪魔だというのが具現化され、計画が進むのが日本橋と銀座の二つの路線。日本橋の上には首都高が走り、その景観を台無しにしていました。あそこに高速道路ができたのは1964年の五輪の開催を受けて計画されたもので当初は日本橋の下を流れる日本橋川の川をせき止め、掘割式の高速道路を通す予定でした。つまり日本橋の上に立つとその下には高速道路がある、という計画だったのです。それが防災上の理由から川をせき止められず、高架になったいきさつがあります。五輪の頃はとにかく何でも許可が下りた時代だったのでしょう。景観問題にあえて疑念を挟んだのが小泉純一郎首相(当時)ですが、実現には紆余曲折があったようです。