「端午の節句」では何をする?

では「端午の節句」には何をするのでしょうか?
「五月人形」や「こいのぼり」を飾り付ける
「端午の節句」では「五月人形」や「こいのぼり」を飾り付けるのが定番とされています。
「五月人形」は侍や武士を意味する人形となります。
これは男児に逞しく育ってほしいとの願いを込めたものです。
「こいのぼり」も同様に龍のように育ってほしいとの願いが込められています。
では「五月人形」は何となくわかるものの、なぜ「こいのぼり」が使用されるようになったのでしょうか?
それは中国に古くから伝わるという『登龍伝説』に由来します。
中国北部を東西に流れる黄河上流には激流が連なった龍門と呼ばれる急流箇所があり、現地では「そこを登り切った鯉は龍になる」という伝説があったそうです。
この伝承からただの魚であった鯉が大いなる龍へと身を変えるということで「鯉=将来の立身出世をあらわす存在」となりました。
その鯉の意匠となる「こいのぼり」も子供が成長や出世を願って飾られる存在となったとされています。
「柏餅」や「ちまき」を食べる
「端午の節句」では「柏餅」や「ちまき」を食べます。
「柏餅」を食べ始めたのは江戸時代からとされています。
江戸時代中期~後期、「カシワ」は新芽が育つまでは古い葉っぱが落ちないという特長から子孫繁栄の縁起物とされていました。
それが武家の間で後を継ぐ男の子の健康と長寿を願う行事として大事にされていた「端午の節句」で食されるようになったとされています。
家の存続を最重要視する武家にとって子孫繁栄の縁起物を口にすることは重要だったため、武家社会が特に栄えた江戸を中心とした関東で「柏餅」は普及したようです。
「ちまき」を食べる風習は古代中国から来ているとされます。
古代中国の戦国春秋時代、楚国に屈原という著名な人物が国を憂いながら身を投げて亡くなりました。
その死には民衆も悲しみ、その命日とされる5月5日に米を竹筒に入れたものを供物として川に流すようになりました。
それが時代を経て葉に包むようになったのが「ちまき」の原型とされています。
この風習が奈良時代に端午の節句の風習のひとつとして日本に伝来しました。
転じて、西日本では現在でも「端午の節句」に「ちまき」を食べるという風習が残っています。
「菖蒲湯」に入る
「菖蒲湯」は邪気を払うため菖蒲の根葉をお湯に入れて行水することを意味します。
これは『古今要覧稿』では「あやめの湯」と呼ばれる風習です。
なお、菖蒲には薬草としての効能があるとされており、この湯に入ることで1年健康に過ごせると信じられています。
また『蛇聟入』などの昔話では蛇の種を宿した女性が菖蒲湯に浸かることで邪悪な蛇の子を降ろすことができる信じられていたとか。
そうした古くからの習わしから5月5日には「菖蒲湯」に入る文化が残ったとされています。