伊藤博文は、併合すると内地と同等の生活水準などを目指す必要が出てくるので、コストに見合わないとして併合には消極的だった。

この伊藤の下で、1907年に副統監となったのが、やはり長州出身でフランスに留学し、駐仏公使も務めた曾禰荒助(外相など閣僚を歴任)である。そして、1909年6月には曾禰が第二代の統監となったが、その直後の10月、伊藤博文はハルビンで安重根に暗殺された。

伊藤は、目賀田種太郎を財政監査長官として招き、日本からの借款で進めたインフラの近代化はまことに優れたものであった。まず重点政策として、学校の建設を大至急で進めさせた。日本の法律の適用を進めたことが批判されたが、外国人にも課税するために条約改正交渉を早く実現するためだった。

しかし、相変わらず朝鮮の守旧派の抵抗は強く、また親日的な人々の間でも党派争いが激しいこともあり、安定した近代化を推進できる基盤は容易につくれない状態だった。そうした中で、1909年の初めには伊藤も併合を是認したが、朝鮮議会を設けるなど、イギリスの中でのアイルランドのように、帝国内の自治領的な形を構想していた。

ところが、安重根が伊藤を暗殺したことで日韓併合が早まり、自治も認めないものとなってしまった。陰謀史観的に勘ぐれば、「安重根の背後には統合推進派がいたのではないか」といいたいくらい愚劣だった。