「ウィーンで観るオペラというのは、あんな面白いものはありませんね。やっぱりモーツァルトはレコードで聴いたんじゃ分からないものがあると思います。……」
そしたら小林さん「ふーん」とニコニコと聞いていたけれど、「きみ、僕はレコードのほうがいいよ。モーツァルトはオペラっていうけど、モーツァルトはきみ、シンフォニーだよ。レコードがいい。だってシンフォニーならレコードで聴けるじゃないか」と。
それこそまさにベンヤミンなんです。
福田和也『江藤淳という人』新潮社、98頁 段落を分け、強調を付与 江藤の最初の訪欧は、1964年夏
最後の1行は、ベンヤミンの1936年の有名な評論を踏まえたもの。1993-95年に草稿『パサージュ論』の邦訳が出るなど、江藤・福田対談の当時は、まさにベンヤミン再評価のピークでした。
なんで小林秀雄の話から急に飛ぶかというと、福田氏の発言にいわく、「一回的な……信仰的な美ではなくて、無限に複製されてばら撒かれて、物に取り囲まれている時代でもなおかつ人間は生き、感動する、その感動は何なんだ、ということを、小林さんはやった」から(92頁)、その批評はベンヤミンの論旨に通じる、というわけ。
議論はそこから、こんな風に続きます。
江藤:いや、とにかくね、オペラじゃなくてレコードが好きだっていうのは、あれはとっても示唆的だと思う。 (中 略)
福田:我々はフェイクであると。それはいいんです。本当ですから。でも、やっぱり小林秀雄は、もうとっくにそういう世界に当たっているわけで、にもかかわらず、その中にある真如を語ろうとしたというのが凄みであって、ただフェイクだキッチュだというんであれば、もう〔戦前の〕モボ・モガの時代に尽くされている。
江藤:そうなんですよ。ですけれど、そのフェイクを通じて、小林さんは贋中の真をいつも見ようとしてきたんですね。……ちょうど1961年、昭和36年ぐらいが小林さんの分水嶺なのかもしれないんですね。つまり、そういう贋中の真と、それから贋中の贋、真中の真というようなこと、真でも贋でもどうでもいいっていうような世界との、ちょうどその転換点。