●この記事のポイント
・能登半島地震の影響で、重要無形文化財となった歴史を持つ輪島塗は今、産業として大きな苦境に立たされている
・震災で仕事場と実家、完成目前のギャラリーを失った田谷漆器店代表の田谷昂大さんに話を伺った。
・輪島塗復興のために立ち上げたクラウドファンディングでは、全国から1億5,000万円もの支援を獲得
伝統工芸で初めて重要無形文化財となった歴史を持つ輪島塗は今、産業として大きな苦境に立たされている。記憶に新しいところだが、2024年元日に発生した能登半島地震において、石川県輪島市では最大規模の震度7を観測。被災により、廃業や離職を余儀なくされた事業者も少なくない。
そんな絶望的とも言える状況下で真っ先に再生への道を宣言したのが、輪島塗の老舗、田谷漆器店(たやしっきてん)だ。震災で仕事場と実家、さらには完成目前のギャラリーを失った代表の田谷昂大さんに、その原動力について話を伺った。
「とにかく言ってしまえ!」退路を断ったからこそ前に進めた
「市内の様子を見た瞬間、もう絶対に無理だと思いました。息子や家のローンのことを考えたら、廃業して東京で仕事を探すか本気で悩みました。だけど周囲の人や全国の見知らぬ人から励ましの声が次々に届いて、続けなきゃいけないと奮い立って。でも、仮眠を取って翌日また辺りを歩いたら、これはやっぱり無理だなって……その繰り返し。何度も迷って、もう決めなければダメだ!と思って1月3日の夕方に会社のホームページとSNSで『僕らは再生します』という宣言を出したんです。それを機に父と話して、代表のバトンを正式に渡してもらいました。その瞬間から迷いがなくなりました」
先行きがまったく見えない中、いち早く舵を切ることに不安はなかったのだろうか?
「正直、怖かったです(笑)。でもとにかく言い切ってしまえって。実はこれ、僕が今までもずっと続けてきた方法なんです。言ったからには覚悟を決めて行動せざるを得なくなる。そうするといろんな人が助けてくれたり、集まってくれる。このときもいろいろなところから一緒に頑張りたいという人が集まってきてくれて、社員数も増えました」

今年34歳になる昂大さんが東京の大学を出て、家業に就いたのは2016年のこと。以来、法人向けの製造や海外への販売、職人が使う道具をアレンジした料理ベラの販売、サブスクによる漆器のレンタルサービス、さらには輪島塗で食事を提供する飲食店「CRAFEAT」を開店するなど、次々と新しい取り組みに着手してきた。
その結果、会社の売り上げは約3倍にまで拡大。震災以前から過疎化や斜陽化が進む地場産業に、新風を巻き起こす「塗師屋(ぬしや)」として注目を集めてきた。
「塗師屋というのは、いわば職人を束ねて全体を統括する漆器プロデューサー。生産工程が多く分業化された輪島塗独自の職種です。
営業や商品開発も手掛けるので、行政や芸能人、アスリートからの注文や、家具や文房具の企業とのコラボなど、いろいろな場所に繋がりが生まれる。本当に刺激的な仕事です」
ところで彼は、2023年6月に自社ホームページから創業年を削除。田谷漆器店が積み重ねてきた年月をアピールすることをやめた。
「老舗であることに寄りかかることはウチらしくない—―そう思って決断しました。田谷漆器店は、むしろ常に新しいことに取り組み続けてきた会社。これからはその精神をもっと大切にしようと考えました。
例えば、祖父も父もお客様の要望に絶対にノーと言わなかった。自分なら断ろうかと思うような納期の発注でも、昔馴染みの職人さんに頼んだり新しい生産ルートを見つけてきて対応する。伝統に安住するのではなく工夫しながら切り開く姿を見てきました。いま振り返ると、このときの決断も退路を断って前に進むやり方だったかもしれません。」