特に現代と比べて技術が未熟だった明治時代の鉄道は、ひときわ急な坂を避けようとルートに関してあれこれ苦心が重ねられていました。
勾配25‰(水平方向に1,000m進む間に25m上下する斜度)を超えないようにするのが鉄道技師たちの至上命令だったのです。
また当時はトンネル掘削技術も未熟であったため、どうしても長いトンネルを避ける必要がありました。
そこで、谷筋を縫うようにして、可能な限り高低差を抑えつつ、なんとかルートを敷くという作戦がとられたのです。
たとえば、山梨県上野原市にある中央線の上野原駅は上位の河岸段丘にある町から遠く離れた低地にありますが、これは意図的な設計であり、どうしても町の高さまで鉄道を上げられなかったのです。
また当時は橋を架ける負担が大きく、それゆえできるだけ橋を架けないようなルートを選択していました。

そのこともあって愛知県岡崎市のように川の合流地点に中心市街地がある場合は町の中心部に鉄道を通すことは難しかったのです。
それでもできるだけ中心部に近い位置に駅を作ろうという動きはあり、東海道本線の岡崎駅は最大限中心市街地に近づけた位置に作られました。
しかし、こうした技術的制約の話を聞くことなく、鉄道が町を避けた理由を「住民が鉄道を嫌った結果」だと思い込む人も少なくありません。
それゆえ地元史家や地理学者の一部には、勾配制限や技術的制約を無視して鉄道忌避説を語る向きもあったのです。
「鉄道が通れなかったのではない、通さなかったのだ」

しかしそれでも鉄道忌避の伝承は色濃く残っており、先述した上野原駅の場合も、上野原町誌には