このブログだって生成AIに書かせればものの数分で書き終わるのでネタがない日には非常に助かるかもしれません。しかし、私が生成AIに頼りたくないのは書くことで自分のエキスになること、ユニークな文章形態でAIでは表しにくい表現を維持したいこと、そして何より完全な文章にしないことに意味があるのです。もしも私のブログが完全無欠、非の打ち所がないものだったら誰もコメントしないでしょう。こいつはまたアホなことをほざいていると思うから「ツッコミどころ満載」で意気揚々、今日は俺がコメ一番乗りだぜ、になるわけです。
ご承知の通り、私は司馬遼太郎を10年がかりで読み続けています。何が面白いかと言えば氏の表現力や文章力が他の作家と比べ圧倒的に差異がある司馬文学であります。とっつきにくいけれど一言ひとことに重みがあり私には宝石が散りばめられた玉手箱ぐらいに感じるのです。なので司馬さんの新しい本を手に取るたびにドキドキしながらも第1ページを開くと裏切らない安心感がそこにあるのです。文章ってそういうものです。口語はなおさらです。しかし、生成AIに強く影響を受けるほど独自の表現力が薄れていくわけで一抹の寂しさを感じます。多分、近い将来、文章が書けない人が続出する、そんな気がします。
後記 グズグズ文句を言う人が私の周りで増えています。思惑通りではない不満を誰かに言いたいのでしょう。昨日もあるイラン人の男から突如の電話で延々と40分近くも愚痴を聞かされました。ようやく終わったと思いきや、別の顧客から「話がある」と言われ、対面で愚痴を1時間。私は両名に言いましたよ。「それを私に言ってどうなるの?」と。すると「君とシェアしたかった」と。世の中フラストレーションだらけで全然コトがうまく運ばないのです。最後のパンチはカナダで30年来のビジネスの友人から「自分の知り合いが金が足りなくなったので50万円程度を貸してくれないか」と。そういう本人は10億円以上の資産を持つ人。訳わかんねー、ですよね。「残念な生き物」ならぬ「残念な人々」だと憐れみながら「そうか、それは大変だね」とウンウンとうなづくと相手がほっとして解放してくれることに気がつきました。バカバカしい話には反論も意見もしないことですかね。