市丸利之助(1891-1945)は唐津中学を出て受験した海兵と陸士の両方に合格、海兵(41期)に進んだ後、航空術を学んだパイロットでもあった。30年に横須賀航空隊内に少年航空兵育成機関として発足した予科練習部の初代部長(校長)を務めたことから、予科練育ての親と呼ばれた。

とはいえ、参考とすべき書とてない過酷な地下壕の中で、当時の軍将校らしい国粋主義的傾向は見受けられるものの、日米関係をペリー来航から書き起こし、開戦に至る経過や崩壊間近のドイツの状況などもほぼ的確に指摘する文章を書き上げた、市丸の見識・博識振りには瞠目する。

時は流れて1975年1月、在米日本大使館に通産省から出向していた一等書記官がワシントンから遠くないアナポリスの米国海軍兵学校記念館を訪い、市丸少将の「ルーズベルトに与ふる書」の日英両文を見る機会を得たばかりか、そのコピーをも入手することが出来た。

その書記官こそ、村上通信参謀の遺児・健一であった。海軍封筒から市丸の手紙を丁寧取り出し、そのコピーまで健一に与えた米国海軍兵学校の関係者も、かつて日本兵と殺し合った米海軍士官である。これも「名誉の再会」ではなかったかと筆者には思える。

筆者は横須賀育ちだが、本稿の関係者と筆者はこの海軍の街を軸に何かと縁がある。和智の出た旧姓横中は筆者の母校横須賀高校、和智を継いで生還者として硫黄島協会会長となった森本一善軍医は長らく三浦市で開業医を務め、筆者の知人にも森本を知る者が少なからずいる。

市丸は横須賀航空隊内に出来た予科練初代部長だが、我が伯父は、果たせなかったが、地元の予科練に志願した。その市丸の長男は敗戦後、栄養不足の寄宿生活がたたり、千葉医大を卒業する一月前に22歳で病没したが、森本一善はその千葉医大卒であった、といった具合である。

最後に筆者が思う日本人の美点の一つを述べて稿を結びたい。

それはジャコビー少年と村上健一が覚えた感動についてである。つまり、負けたのが日本だったからこその「名誉の再会」ではなかったかということ。良くも悪くも何事も水に流す、あるいはすぐに忘れる日本人でなければ、とてもじゃないがこうはなるまい、と思うのだ。