
摺鉢山(硫黄島)遠景 Wikipedia
(前回:硫黄島に因む手紙異聞(前編))
3ヵ月が経ち、大統領に代わって国務次官補から和智に届いた手紙には、56年11月に和智が米国太平洋艦隊司令長官宛に出した手紙に対する同司令部幕僚のフィンドレーからの、「遺骨収集不許可」と書かれた返信に「付け加えることはない」旨が記されていた。
それから6年が過ぎた67年11月、日米首脳会議で小笠原諸島の日本返還が合意された。同年6月26日に「小笠原返還協定」が発効し、硫黄島も日本の領土に復した。その間の和智は、52年の渡航で気付いた、遺骨に比べて数の足りない頭蓋骨の返還活動などに奔走していた。
返還一周年の69年6月には、摺鉢山山頂の米海兵隊記念碑の隣に「硫黄島戦没者顕彰碑」が建立され、遺族を代表した市丸利之助中将の次女美恵子らと共に除幕式に参列した和智の姿があった。その後も和智は遺族ら有志と共に硫黄島の遺骨収集に通い詰める。
その集大成が85年2月19日の「名誉の再会」だった。退役海兵隊団体の提案を受け入れた和智が、そう名付けたのだった。そしてジャコビー少年が「平和の手紙」で「僧侶が焼香を終えると牧師が説教し・・」と記した僧侶こそ、齢85歳を迎えんとする「寿松庵恒阿弥」こと和智恒蔵、その人であった。
市丸利之助の手紙
45年3月16日、栗林中将は翌17日夜12時を期して総攻撃を行う旨、大本営に打電した。航空戦隊司令官市丸少将は壕内に部下60名を集め、訓示と共に「ルーズベルトに与ふる書」(以下、「書」)を読み上げた。その場にいた者で生還したのは、重傷の身を米軍に収容され、戦後帰国して「書」の概要を伝えた松本巌上等兵唯一人であった。
ルーズベルトに与ふる書
日本海軍市丸海軍少将、書を「フランクリン・ルーズベルト」君に致す。我今我が戦ひを終るに当り一言貴下に告ぐる所あらんとす
日本が「ペルリー」提督の下田入港を機とし広く世界と国交を結ぶに至りしより約百年此の間日本は国歩艱難を極め自ら欲せざるに拘らず、日清、日露、第一次世界大戦、満州事変、支那事変を経て、不幸貴国と干戈を交ふるに至れり。之を以て日本を目するに或は好戦国民を以て或は黄禍を以て讒誣し或は以て軍閥の専断となす。思はざるの甚しきものと言わざるべからず