その結果、庶民は自らの生活費を何とか守るため、家族がぎりぎり生活できるだけの金額しか稼がないようになりました。
どんなに庶民が苦労して稼いだとしても、役人たちはそのたびに新たな略奪の手口を編み出したということもあり、庶民はもし思わぬ臨時収入があったとしても、資産を築くことなくすぐに使い果たしていたのです。
やる気のない裁判官、中世レベルの拷問を行っていた拷問官

このように李氏朝鮮末期はまさに世紀末のような状況でしたが、司法制度は当然機能しているはずもなく、まさに幕間の茶番劇として展開されていたのです。
1895~96年、ロシア帝国の軍人が記したところによれば、李氏朝鮮の裁判所は、判事たちが補佐役の書き上げた詳細な報告書を鵜呑みにして、あっさりと判決を下すという、まさに「おまかせ裁判」の舞台であったとのこと。
補佐役たちは、まるで裏方の名人芸を披露するかのように、自らの利得のために審理の流れを操り、役人、警察、憲兵といった側近たちも、その怠惰な上司の影に隠れて、密かに力を行使していたのです。
刑事事件においては、その残虐さは言葉を失うほどで、被告人からは拷問によって供述が引き出されました。
膝を殴る板、後ろに回して結ぶ腕、髪を縛り吊るすなど日常茶飯事で、判事たちは、個人的な収入のために罰金を手広く流用していたといいます。
1902年に駐在したイタリアの外交官は、証人にまで及ぶその悪辣な拷問の現実に、身震いを禁じ得なかったと記しています。
ポーランドの小説家セロシェフスキは、金持ちは金で無罪を買い、貧乏人は些細なことで監獄行きにされる、法の正義が歪んだ世界を嘆いたという。
このような刑罰と司法制度は、当然ながら中国の影響を色濃く受け、身分を問わず拷問が横行し、冤罪事件すら後を絶ちませんでした。
さらには、田舎者の夫婦に対して、役人が娯楽半分に妻を攫ったものの、夫はそれを訴える場所がなくたださまようだけだったという記述まであり、司法が機能不全を起こしていたことが窺えます。