ここまで李氏朝鮮に奴隷が多く存在したのは、当時の支配的な階層である両班(ヤンバン)が多くの奴隷を必要とする生活スタイルをとっていたからです。
というのも朝鮮の両班層は、読み書きができる教養のある層でしたが、肉体労働は他人任せ。両班は、まるで絵に描いたような高貴な存在であり、自分の手足として奴婢を必要とするような人たちだったのです。
彼らは、身体を動かすこと自体を、まるで忌避すべき儀式のように感じ、名実ともに箸より重いものを持たない生活を送っていたようです。
そのことは西洋の外交官がレクリエーションとしてテニスを行っているのを見て、「どうしてあのような労働を下人にやらせないのだ」と呆れたという逸話さえ残っています。
反社と同レベルだった李氏朝鮮末期の役人、宵越しの銭しか持てない庶民

また西洋人の記録によれば、李氏朝鮮末期の役人は、いつもどこかでこっそりと庶民の財産をむさぼる、言わば“公盗”のごとき振る舞いを繰り広げていました。
科挙の試験(両班になるためには表向きは科挙に合格しなければならなかった)もコネと金銭で決まっていたのです。
もし、庶民が懐に余裕を見せれば、役人たちは「ちょっと金貸してくれよ」と無理をいい、拒めば投獄、鞭打ちという、まるで中世の拷問のような仕打ちが待っていました。
そして、借りた金は一向に返されることはなかったといいます。
もちろん当時の役人の倫理観は現在とはかなり異なっており、日本を含め世界中で賄賂が横行し、庶民には厳しい年貢の取り立てで苦しめていた事実はあります。
とはいえ、李氏朝鮮における官僚の腐敗は、やはり一段と際立っていたようです。
そのことは当時の李氏朝鮮に滞在していた外国記者が「役人はみな盗賊」というタイトルで新聞に記事を出したり、李氏朝鮮に偵察に行ったロシアの貴族が報告書に「朝鮮慣習法の基礎は収奪である」と書いたりしていたことからも伺えます。