そもそも婚約の破棄は、常人も不徳とする所である。それを些々たる体質上の欠点を理由として、皇室がこの不徳をおかされるのでは、帝国の皇道に一大瑕瑾をのこし、国民の道義を指導することはもはや不可能となろう。第一せっかく婚約成立した両殿下に対して、無残にも強いて之を割き奉らんか、御心身の上にいかなる結果を来すやもわからぬではないか。

こうした事情を打ち明けたからであろう、「玄洋社」の頭山満や「浪人会」の内田良平ら右翼の巨頭も動き出し(彼らには皇太子訪欧阻止の目論見もあった)、薩摩島津家の血を引く良子女王の皇室入りを面白く思わない山縣がこれを阻止しているとの陰謀説(「モズレー本」は専らこれ)や、北一輝・大川周明らの「猶存社」による山縣暗殺論の噂まで流れる始末となった。

そんな21年2月8日、3月3日から9月3日までの皇太子ご訪欧が正式決定、15日に報道される前に、原首相は8日の閣議で事件について話し、中村宮内相に、誰かが責任を取ってでも、事を収めねばならないと語った。中村は50%の確率に賭けることを決意(「児島本」)、山縣公説得に動く。公を訪れて諸般の状況を説き、自分の責任でご婚約に変更ない旨を発表したいと述べた。山縣はこう応えた。

宜しい。ことは頗る重大であるから、本来なら直ちに聖断を仰ぐべきだが、今日にては陛下は御脳の御宜しくない時であるから、それも出来ず。己(おれ)は純血論なれど、己の主張は採るに及ばず。貴様は気の毒であるが、事の落ち着きを見て辞さねばならない。己に遠慮はいらぬから貴様の思う通りにやれ。

斯くて、宮内庁は21年2月10日、「良子女王殿下東宮妃御内定の事に関し、世上種々の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更せず」と発表した。こうして宮中を揺るがした某重大事件は落着、皇太子は3月3日、横浜港に浮かぶ御召艦「香取」艦上の人となった。

杉浦は御用掛に復帰して23年後半まで良子女王への進講を続け、24年1月26日のご成婚から18日後の2月13日、68歳10カ月の生涯を閉じた。これを小笠原長生は「果たすべきを果たし、尽くすべきを尽くした理想的忠臣の終焉として、真に申し分の無いもので、翁の人格を語るにはこの一事で沢山である」と語っている。