元より芳しくなかった大正天皇の健康状態も、最後に国民の前に姿を見せたのが19年5月の東京遷都50年祭であり、12月26日の第42回帝国議会開会式臨御を中止したことからも推察されるように、皇太子ご婚約の頃から既に思わしくなく、山縣の驚きはひとしおで、平井博士にこう漏らした。
もし他日、帝国を統治し給う天皇に於かせられて、不幸にも紅緑の色彩を弁別し給わず、花も葉も一色と見、秋の紅葉も夏の緑葉も看別するの能力を欠き給う如き事ありては、ただご一身のご不幸のみならず、至神至聖なる皇統に永くかかる疾患を遺すは、真に恐懼の至りに堪えず・・
実は、邦彦王は宮内相から17年末に内意を受けた際、「わが家には、色盲または色弱症遺伝の疑問がある」と打ち明けていた。宮内相は出入りの医師による調査を勧め、邦彦王は「色盲遺伝子保有の女子が健全なる男子と結婚する時は、その出生の男子の半数だけ色盲になるが、その女子は皆健全にしてその子孫に色盲の遺伝することなし」との判定を宮内相に知らせていたのである。
が、そうとは知らない山縣は元老の松方正義侯爵、西園寺公望侯爵に事態を告げて相談した。結果、医学上の判断を明らかにしてから、然るべき方法で久邇宮家に婚約辞退を勧告すると決めた。鑑定した三博士連名の意見が18年10月に提出され、その要点は次のようだった。
色盲の家庭に生まれた健眼の女子と健眼の男子に生まれた女子は皆健眼だが、男子は半数が色盲になる 良子女王の場合はこれに相当し、王子の半数が色盲になる懸念がある
三元老は筆頭皇族の伏見宮博恭王が久邇宮家を説得するのが最善と決め、波多野氏の後任の中村宮内相を使者に立てて伏見宮に向かわせた。事情を聞いた伏見宮も愕然とし、「久邇宮に於いてご辞退在るを至当と考える」と述べ、翌11月上旬、久邇宮家にその意向を伝えた。
が、邦彦王は敢然として戦う決意を固めていた。邦彦王は、最初に良子女王に白羽の矢を立てた貞明皇后に「上(たてまつるの)」書を提出した。そこには、婚約を拝辞するのは次の二通りの場合しかないと記されていた。即ち・・・、
両陛下または皇太子殿下におかれて、その方が良いと思召されたとき 帝室の御血統に必ず弱点が発生するだろう、と邦彦王が自覚するとき