山城国に都が移ると山崎までは、大きな船が遡上できるので、衰えた大阪だが、その後も、難波津は重要な港であり続け、熊野詣での出発点でもあった。
難波が復活したのは、蓮如上人が御坊を置いたおかげである。1532年には山科を逐われた証如上人(蓮如の曾孫)が本願寺とした。
当時、一向宗徒は、堀に囲まれた寺内町を盛んに建設したが、これもそのひとつである。大阪城大手門のあたりが西の端で、二の丸の南西部と本丸の南半分が境内だった。
織田信長との石山合戦は、10年間も戦われ、最後は顕如が正親町天皇の斡旋で退去したが、子の教如は抵抗し、最後は放火して寺も寺内町も灰燼に帰した。
信長が石山をどう管理したか詳しくは分からないが、本能寺の変のときには、四国攻めのために織田軍が集結しており、織田信孝や丹羽長秀らによって明智光秀の娘婿だった織田信澄が粛清される事件もあった。清洲会議では伊丹城主だった池田恒興に与えられたが、賤ヶ岳の戦いのあと美濃に移り、山崎城にあった豊臣秀吉が大規模な築城を行った。

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現在の大阪城は徳川によって再建されたもので、秀吉の城の上に盛り土をして築いたものである。豊臣時代は、石垣や建物は現在のものより小型だった。石垣の積み方も現在のような大型の石でなく細かい石を野面積みにしてあった。
しかし、建物の華麗な美しさは桁外れだった。黒田家所蔵の「大坂夏の陣屏風」には、精巧に城内の様子が描かれているが、建物は現在の総塗籠めの白いものでなく、下見板張りの黒いものに金の装飾が多用されていた。天守閣は、安土城と同様に生活もできる住居風の内装だった。戦後復興された伏見桃山城がいちばん近いイメージなので、映画などではよく大坂城としてロケ地に使われる。
徳川時代のものは、総塗り籠めで名古屋城の天守閣に近く、最上階の高欄もなかった。
現在の「大阪城天守閣」は、昭和天皇の即位記念に鉄筋コンクリート、エレベータ付きで建設されたもので、徳川時代の天守台の上に、豊臣時代の意匠を基本にしつつ壁は徳川風に真っ白である。