はじめに
価格が高騰している米を、転売のため大量に確保している中国人がいると報道された。ときどき、このような人が登場する。四川省自貢で井塩(塩水を地下から汲み上げてつくる塩)の作業場を取材したときは、塩を日本に輸出したいのでペーパーカンパニーを設立しないかと見知らぬ人に声をかけられた。横浜中華街の飲食店経営者からは、手を替え品を替え有名メーカーの偽物調味料を売り込んでくる名物男の昔話を聞いたことがある。
米穀商ではないにもかかわらず米を転売しようとしているのは、もちろん中国籍の人々だけではない。しかし彼らにとっての外国で、本業ではない米の取引に乗り出し、穀類備蓄用ではない倉庫や家屋に米を保管し、より高値になるのを待つというビジネススタイルは、「よくやるよなあ」と思わずにはいられない。もちろん米の転売を試みる日本人含め他の国籍の人の感覚も、私の常識では理解できない。正直なところ、迷惑な話だ。
コロナ禍初期のマスク不足が甚だしい時期にも同種のビジネスを試みた人々がいた。当時取材した正規の輸入業者は、不織布製造の中心地が中国なので伝手もあり中国籍の人々が参入したのだろうと証言した。
この時は価格高騰時でさえドラッグストアが取引を拒絶し、マスクの価格が急落して大きな損失を被る人が続出した。1箱2000円に値下げした不織布マスクをリヤカーに積んで行商してもまったく売れない様子は、あまりに異様だった。その後、行き場を失い廃棄された不織布マスクも多かったという。
多様化とは何だろうと問う視点から中国と日本、中国人と日本人の関係について考えたいと思う。これは古くはイラン人問題、最近ではクルド人たちの事案にも共通するものがあるだろう。
花開富貴しなかった中国
中国に「花開富貴」という言葉がある。漢字の並びを見たまま読んだままの意味だ。花が開くように繁盛したり成功する印象は、日本語の感覚とまったく同じだ。