源内は中津川村の鉄山事業を、幕府の医官である千賀道隆らと連携しながら進めた。千賀道隆は田沼意次の愛妾「神田橋お部屋様」の養父であり、この事業の背景には、意次の鉄銭鋳造計画があったと見られる。

源内の鉱山事業には同村の名主・幸島喜兵衛や組頭・半右衛門ら地元有力者も協力し、安永二年(1773)春には鉄山の普請工事や「吹所」(精錬所)の建設が開始された。この鉄山では砂鉄の採取を行い、たたら製鉄を用いて鉄や鋼を生産しようとした。

しかし、この鉄山事業は早期から問題を抱えていた。最大の課題は精錬技術の未熟さだった。源内は精錬を何度も試みたが、「吹方熟し申さず」(妹婿の権太夫あて書簡)と自ら認めているように、良質な鉄や鋼の生産には至らなかった。石巻の鋳銭座で鉄銭(「仙台通宝」)の鋳造を行っていた仙台藩と交渉し、料鉄(鋳銭用の鉄材)を提供する計画を立てたものの、供給する鉄の質が低いため契約が進まなかった。

源内は周囲に対しては事業の成功を誇張して報告し、資金を集めようとした。一例を挙げれば、「上質の鋼鉄が生産できたので刀を鍛えて田沼様に献上した」と記した手紙が残されている。だが実際には生産された鉄の質が悪く、船釘や鎹(かすがい)にしかならず、鍛冶屋にも不評だった。そのため、販売が滞り、資金繰りが悪化していく。

源内は鉄山の経営を維持するために人員や資金を投入したが、幕府への運上金(税金)や地元住民への報酬の負担も大きく、安永三年(1774)にはついに事業が行き詰まり、鉄山は休山となる。中津川村の幸島家が残した『鉱山記録』には、「目論見人平賀源内大しくじり、これあるゆえなり」と記され、彼の経営失敗が明白に認識されていたことが分かる。

源内の鉱山事業の失敗は、鉱山技術に対する熱意とは裏腹に、事業運営に必要な計画性や経済的実務能力を欠いていたことを示していよう。また、彼の文人あるいは通人としての移り気な性格が、実利的で冷徹な経営判断を阻害した可能性もある。