黒坂岳央です。
昨今、あちこちで「努力できるのも能力の内なので生まれつき決まっている」という意見をよく見る。
確かに人並み外れた、歴史上の人物やプロアスリートのような人は明確に遺伝的要素とカテゴライズしてよいだろう。だが、一般人レベルの努力なら能力差ではなく、方法論や習慣化の方が遥かに強い。また、努力できる、できないは極端な二元論で論じることはできず、あくまで個人差が現れるのは「努力の度合いや密度」である。そしてその度合いも能力値で100%決まっているわけではなく、環境や技術で伸ばすことは十分可能だ。
「自分は努力ができない側の人」と主張する人も、本人は気づいていないだけで「努力は才能」という趣旨の主張をSNSで年単位で発信するという努力をしているし(普通は経済的見返りや強制力がないとできない)、漫画や推し活という他の人ができない熱量を注ぎ、大変な努力をしていたりする。本人は知らず知らずの内に努力しているのだ。
確かに一部において能力的に努力できない人は存在するが、ほとんどの場合については「努力のやり方」を知らないだけなのだ。

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努力は方法論
「頑張りたいのに頑張れない」 「何をしても三日坊主で終わる」
こういう人は本当に多い。だが、彼らのやり方を見ていると、方法論や戦略なしに感情的に始めている。年単位で継続する前提で取り組んでいなければ、当然続くわけがない。
たとえば「継続」については多くの人ができずに悩んでいるものだが、ほとんどは継続のコツと真逆のことをやっている。すなわち、大きく始めて太く続けるから失敗する。
努力の継続のコツは「小さく始めて細く続ける」である。筆者は今年で記事の寄稿で8年、YouTube動画投稿が5年とコツコツと続けてきた。別にこのくらいの期間やっている人など世の中にいくらでもいるので、稚拙な自慢をするつもりはない。ここで言いたいことは「細く続けたことが継続の一因だった」という話だ。