貿易政策としては、長崎会所(税関兼商社)の経営を再建するなど積極的な姿勢を見せたが、長崎での限定的な貿易だけでは十分な文明の流入は望めなかった。
田沼意次の失脚とその後
田沼が失脚した後、松平定信は「蝦夷地を開発するとロシアをおびき寄せる」「オランダ人と日本人の身体は違うから蘭方医学は不要」「朝鮮通信使を対馬以外に入れると日本が後進国だとバレる」「民間人の生活が向上すると武士の物欲が生じる」「朱子学以外を排除する」といった保守的な政策を実行し、進歩を止めてしまった。
もし田沼があと数年政権を維持し、あるいは同じ考え方を持つ後継者が登場していれば、田沼礼賛論者が指摘するような経済の覚醒が起こった可能性は高い。
つまり、田沼の政策は方向性としては正しかったものの、成果は十分ではなかった。また、現代の積極財政派の主張とは必ずしも一致しない点にも注意が必要である。