この頃、細川重賢(熊本)を皮切りに、上杉鷹山(米沢)、毛利重就(長州)、島津重豪(薩摩)など、藩政改革に成功した名君が各地で登場した。彼らの改革は、倹約、新田開発、殖産興業、専売制の導入、藩校の充実、人材登用など多岐にわたった。

中でも、すべての分野においてバランスの取れた改革を行い、批判を受けにくいのが上杉鷹山である。しかし彼ですら試行錯誤を重ねた末に成功したのであり、改革の方向性が正しくても、細部の巧拙や領主の人心掌握の巧みさが結果を左右することは多い。

たとえば、尾張の徳川宗春は積極財政を行い、経済や風俗の自由化で一時的に成功したが、産業育成を怠ったため、ほどなく財政が悪化し行き詰まった。これは、現代において「金を撒けば成功する」と考える積極財政派と似たような状況である。

また、蜂須賀重喜(徳島)は、藍の流通の主導権を大阪商人から奪おうとして失敗した。藩校を創設しても、細川重賢は禁欲的に算術を学ぶことを禁じ、松平定信は蘭学を抑圧するなど、改革には統一された方向性がなかった。

田沼意次の経済政策の特徴

田沼が大名であれば、必ず成功していただろう。実際、彼が領主を務めた駿河相良では、道路や港の整備、特産品の開発、町並みの防火対策としての瓦づくりなど、着実な成果を上げた。

老中としての田沼は、大名たちと異なり、貨幣の改鋳や、清国(乾隆帝の時代)でグルメブームに沸いていたナマコなどの俵物輸出、蝦夷地開発を推進した。新田開発では、印旛沼の干拓を試みた。

産業政策としては、株仲間や会所を設立し、彼らに独占利益を保証する代わりに、インフレ防止を義務付け、運上金・冥加金(営業税)を徴収した。当時は消費税のような間接税を導入するのが困難だったため、こうした形で税収を確保した。カルテルには弊害もあるが、当時としては現実的な方法だった。

蝦夷地開拓に関しては、ロシアが1648年にオホーツク海に姿を現したが、鎖国政策をとる幕府は長らくその脅威に気づかなかった。1771年、ハンガリー人ペニョフスキーが訪れ、ロシアの進出を報せたことで、田沼は素早く対応し、ロシアとの交易や開墾を企画した。しかし、交易は利益が少なく、寒冷地での開墾は困難だったため、最終的に断念した。それでも、ロシアの進出を見据えて前向きな姿勢を示した点は評価に値する。