日本のリーダーシップ論の多くは一定の似たような才能、能力、技能をもった人材をかき集め、そこでトップグループとして切磋琢磨することで更なる成果を上げるスタイルに強みがあります。高校野球にしろ駅伝にしろ監督はチームワークを主眼とします。24年春の高校野球を制した高崎健康福祉大学高崎高校の青柳監督が「(監督に)カリスマはいらない」(日経)と述べています。青柳監督はまた「全員参加型」という言葉を使っています。この発想は近年では稲森和夫氏の教え的であり、チームから脱落者を出さないことを特徴としています。

稲森和夫氏 Wikipediaより

日本の企業レベルでは社員という財産を更に光らせるために企業内チーム対抗の戦いが繰り広げられます。営業1課から5課まであるような会社ではそれぞれの営業部門では違う商品を扱っていても課長を中心に「あいつらには負けるな!」という喝を入れながらチームが歯を食いしばる、それが重層的に積みあがったのが企業の一つの姿とも言えるでしょう。

この手のスタイルで似た他の国は私の知る限り韓国ぐらいしか思いつかないです。チーム内に必ずヒーローやポイントゲッターがいてその人を中心に補完関係がうまく回っていくのです。必ずしも課長の力ではないでしょう。これが日本的リーダーシップだと思います。

海外の場合はこれとはかなり相違します。韓国と日本と似ている理由は共に純血主義なのです。つまり国民の大半が同一民族で似たような価値観を共有しているのです。ところが例えば欧米になるとまず移民が人口の3割から5割を占め、その人たちが持つ常識、判断基準、価値観は見事にバラバラ。そうなるとマネージャーにしろ社長にしろチームや社員を束ねるのは恐ろしく難しいのです。

例えばJPモルガン銀行がリモートワークを廃し、週5回出社制に変えることにしたのですが、ダイモン会長が「これで多少辞める人も出るかもしれないがそれは構わない」とあっさりしたものなのです。これが日本なら「一人の退職者も出さない方法は何か?」と延々と議論するでしょう。ではリモートワークができなくて退職を余儀なくさせられた人は会社を恨むか、といえば「会社の方針と合わないのだからしょうがない」程度だと思います。DOGEで退職したアメリカ政府職員もたまたまでしょうが、にこやかに建物を出ていくシーンが報道されていました。(内心はにこやかではないと察します。)一方、日本では最近あった熱海の旅館の放火事件のように「退職させられた腹いせに火をつけた」という怨恨すら生まれるのです。