少数与党時代は政策連携が不可避
読売新聞主筆のナベツネさんが昨年12月に死去、2月25日に帝国ホテルでお別れの会があり、3900人が参列しました。石破首相、岸田・前首相、森喜朗・元首相ら自民党の最高権力者らも献花しました。ナベツネさんはとにかく自民党との関係が深く、最も親近感を覚えていたと思います。

渡辺恒雄氏お別れの会のようす
昨年10月の総選挙で自民党が過半数を割り、少数与党に転落し、野党と連携しないと政策運営ができない状態に陥りました。ナベツネさんは社説、社論を統括する主筆を続け、それを誇りにしていました。自らは筆をとらなくても、晩年まで担当記者が書いた首相、自民党関連の社説は特に自身で目を通し、ゴーサインが出されてから掲載する状態が続いていたはずです。
他社がそこまで書かないような激烈な石破批判の社説が掲載されました。総選挙直後の10月28日の社説は「自公で過半数を勝敗ラインに設定していた石破首相の進退も焦点になる」は、常識的な論調でした。それが翌10月29日の社説となると、一転、激烈な論調になりました。石破降しです。
「石破首相がとるべき道は明らかだ。政権に居座り、政局の混乱を長引かせることは許されない。速やかに進退を決することが憲政の常道である。新政権が衆院選でとった戦術がちぐはぐでことごとく裏目に出た」と、批判します。石破退陣要求です。本来なら与党に厳しい朝日新聞は「国民の信を失ったままでは、政権の継続は至難の道だ」と、間接的な表現にとどめたのが対照的でした。
安倍、菅、岸田氏らは、ナベツネさんと直接、会食したり、懇談したりする間柄だったと思います。石破氏は「党内野党」を自認していただけに、ナベツネさんとの距離があり、それがまた気にいらず、退陣勧告をしやすかったのだと想像します。
首相就任後、2か月ほどで石破氏が政治的実績を残せるはずはなく、自民惨敗の基本的要因は安倍派を中心とした不透明な政治資金、裏金問題にあり、総選挙の惨敗は石破首相の拙い選挙戦術よりも、「安倍派問題」だったと思っていました。過半数割れは安倍派に責任があったはずと思います。