天平時代とは奈良遷都の710年から長岡京へ遷都されるまでの749年までを差します。

当時の寺院建築について、伽藍(がらん)配置という言葉を聞いたことがあるかもしれません。これは建物の配置の様式を現す言葉で、いくつかの種類がありますが、メインとなるのは本尊を安置した金堂と仏舎利を収めた塔です。

天平時代以前は塔が礼拝の対象でした。塔には仏舎利が収められていることもあり、崇拝の対象だったからです。

法隆寺の伽藍配置。ひとつの金堂に対して塔がひとつのシンプルな構成
法隆寺の伽藍配置。ひとつの金堂に対して塔がひとつのシンプルな構成 / credit: Wikimedia Commons

それが天平時代には金堂がより重視されるようになりました。塔よりも、実際に目の前にある仏像が礼拝の対象となったためです。

仏教が国教とされ、仏教建築や仏像制作に関わる技能を持つ人は国家公務員として雇用されました。仏像の出来栄えは重要視され、仏師は仏像の表現により気を配るようになりました。

現存する国宝級の仏像は、それだけハイレベルな仏師が国家公務員として仏像を制作していたことも重要な要因です。

仏師たちは仏像のリアリティを追求するため、脱活乾漆(だっかつかんしつ)の技法で仏像を多く作るようになります。

これは細部をデリケートに表現するため粘土で作った原型に漆を染み込ませた麻布を貼り、漆が硬化したところで粘土は取り去って心木を入れて形を固定。その上に粉末にした木材を漆で練ったもので細部を表現し、最終的に漆で仕上げるという張り子のような技法です。

彫るのではなく形作っていくので、細部が気に入らなければやり直せるという利点もありました。脱活乾漆像では興福寺の阿修羅像が有名です。

奈良県に位置する興福寺の阿修羅像。現代ではイケメンと呼ばれて若い女性に人気
奈良県に位置する興福寺の阿修羅像。現代ではイケメンと呼ばれて若い女性に人気 / credit: Wikimedia Commons

木彫の仏像は一木造から寄木造へ発展した

木彫の仏像は一本の木材から掘り出す一木造から始まりました。そのため、仏像のサイズや表現には木材のサイズによる制約がありました。

一木造は像の幅や厚みに制約が出る
一木造は像の幅や厚みに制約が出る / credit: Wikimedia Commons