多幸感溢れるユートピアがウケていたはずが、たかだか新型の「風邪」の流行ひとつで、売れ線はディストピアへ。でも、そんな手のひら返しが起きる理由を、コロナ前の対談にもしっかり書き込んでおいた。そこが『心を病んだら』の意義だったかなと、ふり返って思う。
與那覇 ……「成熟の困難」を言い換えると、「これが人間的な価値であり、それを身につけるのは素晴らしいことだ」といった信仰が、社会的に成り立たなくなっていると思うのです。 たとえばアベノミクスの実績はほぼ、人口動態上の変化で「新卒が正社員になりやすくなった」だけのことですが(一章)、しかしいま正社員になったところで充実感がないわけでしょう。昔のような経済大国ではないですから。 一方で非正規雇用だと、日本の正社員優先の給与体系の下では「結婚して、子どもを自分以上の学歴に育てて、最後は家を買って……」的な、かつて人間らしい成熟だとされてきたライフコースを送れない。 結果として「人間らしい幸せとは」的な言い方がうさんくさく感じられるようになり、正反対の「人間なんてAIに抜かれる」「いまの仕事に満足してるヤツはバカ。シンギュラリティが来て失業」といった論調がウケたのではないでしょうか。
斎藤 たしかに「成熟拒否」の傾向はあると思います。いまの若い人たちに接して強く感じるのは、彼らが経済社会的なレベルでも、人間性のよりよい向上というレベルにおいても、成長や成熟というものをまったく信じていないことなんです。
『心を病んだらいけないの?』169頁 (強調を附し、段落を改変)
テック(技術)とニューエコノミー推しの裏側に貼りついていたのは、単なる人間不信であり、自分と社会の可能性を「諦めきることで楽になろう」とする否定の衝動だった。コロナ禍やウクライナ戦争は、それらを表に出す「きっかけ」を作っただけで、そもそもの原因ではない。
キラキラしたビジョンを売り込まれた後だからこそ、「なんだよ。大して輝けないじゃん」と躓いただけで、じゃあもう嘘でも不正義でもなんでもいいや、と逆の極端まで落ちてしまう。社会がまるごと陥ったそんな力学についても、斎藤さんは臨床に基づき予言していた。