後者ではむしろ翌年のハンガリー動乱の際に、伊藤さんがハンガリーを支持してソ連を批判したところ、降格されるなど党内で叩かれた。それで共産党を見切ったという書き方になっています。共産主義は民族の自立や、市民の解放の側に立つと信じてきたのに、ソ連の「帝国主義」を肯定するのかという憤りに駆られたとも取れますよね。
86頁 算用数字に改め、強調を付与
伊藤隆氏といえば、実証的な昭和政治史の開拓者であると同時に、筋金入りの反共主義者だった。なんせ、通史シリーズの1冊として海外交流史を担当した『日本の内と外』(原著2001年)なんて、前半は明治のお雇い外国人とかふつうの話なのに、後半は文字どおり全部がコミンテルンとシベリア抑留である。そんな書き方あるか?
これはぼくの勘だけど、晩年の伊藤氏が辻田さんの取材で離党の経緯をぼかしたのは、ハンガリー事件までは共産主義を「信じていました」という話を、したくなかったんじゃないだろうか。
自分は本気だったからこそ、党も運動も堕落しきっていると知って、許せなくなった。だからその後は、アンチの急先鋒でやってきた。実はそうした生き方は、そんなに珍しくない。
村松剛という、ぼくの好きな文芸評論家も(伊藤さんと異なり、共産党員ではなかったが)同じだったことを、神谷光信さんの評伝で知った。三島由紀夫の親友で、後半生ではガチガチの反共・保守反動として知られ、自宅を極左セクトに放火されたり(!)した人である。
重引になるが、1957年1月の『新日本文学』で、その村松はこう書いた。
かつてナチスや日本軍は、民衆のパルティザン化にあい、どれが敵か見分けがつかなくなって、ついに徹底的な殺戮と破壊との「清郷」行為に出た。そしてますます、民衆の敵意をそそりたてた。立場こそちがえ、いま赤軍がこれと同様のことをしたのである。 (中 略) 直接の問題は、何といっても〔ハンガリーの〕国民全般の反共化にある。反共化にさせた発条はソビエトの政策だ。 (中 略) 反共化した大衆を武力で弾圧し、ブチ殺すことが、大衆を救う唯一のみちであり必要悪であるか。他の、もっと漸進的な方法があり得たはずだろう。困難であっても、それをさがし出すのが人民の政治家の義務である。