歴史的には失敗とされるこの遠征、しかしながら、その陰でそろばんなる異国の道具が日本に舞い降りたのです。

それまでの日本にもそろばんがなかったわけではないものの、これ以降そろばんの輸入が本格的にはじまり、日本数学会の止まっていた歯車が動き出しました。

さらに1627年、吉田光由(よしだみつよし)が『塵劫記(じんこうき)』なる本を出版します。

この本、単なる数学書ではありません。

タイトルには「塵」と「劫」という仏教用語が含まれ、微小(塵)から巨大(劫)までの数字の世界観を表しているのです。

これは読ませるための工夫が色々されていて、田畑の面積計算や川や堤の工事に関する問題、さらには娯楽的な問題まで、多岐にわたる題材を取り入れており、出版されるや否や大ベストセラーとなり、版を重ねるうちに、粗悪な類似品(海賊版)までもが生まれました。

吉田自身この海賊版に頭を悩ませ、真に数学について考える者が読むように「未解決問題を巻末に載せる」という対策を講じました。これが後に多くの数学者たちの研究意欲を掻き立てる結果となったのです。

さて、江戸時代になると、数学は実用性を超え、文化的な営みへと昇華します。

読み書き算盤が広まり、個人塾が隆盛を極めたのです。

武士たちも農民たちも、皆が算術に勤しむ様子は、さながら日本全体が数学塾と化したかのようであります。

しばらくして、日本独自の数学「和算」が花開き、物語はその黎明を迎えました。

問題が解けると絵馬に書いて奉納していた

円満寺(奈良県)の算額、江戸時代は数学の問題が解けるとその答えを寺社に奉納していた
円満寺(奈良県)の算額、江戸時代は数学の問題が解けるとその答えを寺社に奉納していた / credit:Wikimedia Commons

江戸時代、日本各地に広がった和算は、農村から都市まで、人々の生活に根差した文化となっておりました。

高度な数学は三都(江戸、京都、大坂)に集中し、大坂では和算家・橋本正数(はしもとせいすう)が天元術を先駆的に理解し、その名を歴史に刻んでおります。