そんな日産は急速なグローバル化がたたり、それから12年後に会社存続の危機にまで追い込まれるとは誰も思わなかったでしょう。私は80年代後半、ゼネコンで秘書をしていたのですが、社長は日本興業銀行(現みずほ銀行)出身の方で2人で出張の時はバンカーからみた経営という視座を教え込まれたのですが、その際にしばしば出てきたのが日産の話でした。
興銀は日本の産業を支援するという目的があり、優秀な行員ほど外に出ていました。つまり出向や転籍にこそ価値があった独特の銀行でありました。その出向者、転籍者をしっかり結び付けていたのが興流会であり、そこで飛び交う企業情報は誰もが知りたがる極上の情報だったようです。私のボスの一人である社長も毎週、興流会には欠かさず参加し、さらに興銀の役員室フロアにも毎週のように通い、情報を得ていました。よって80年代後半から日産に問題あり、ということはそれなり話を聞いていたのです。今だから言える話です。
90年代の日産は興銀が必死に支えたと言ってよいでしょう。ですがバンカーでは車は作れないのです。経理財務をいくら抑えたところで出血が止まらない中でルノー、そしてゴーン氏の登場となったのです。
ここまで見ると日産という企業は非常に個性のある人物が会社を引っ張るのが常であり、逆にその人物がいなくなると統率ができず、戦国時代が始まるのです。ゴーン氏なきあとの日産の経営体制がおかしなことになったこと、そして内田誠氏と関潤氏の確執も実に日産らしい展開だったと言えます。つまり日産がプリンスを吸収したのちの約60年の歴史とはお家騒動を中心に回っていたわけで、戦国時代と安泰の時代の繰り返しだったとも言えます。
日本の歴史を例えにすると怒られるかもしれませんが、川又、塩路、石原という戦国時代を経てゴーン体制が江戸時代、そして今長い幕末で明治維新が来ない状態と言ったらどうでしょうか?さしずめ戊辰戦争が続いているということです。