ホンダと日産の破談が正式に発表されました。本件は先週にも触れているのですが、日産の過ちという点からもう少し考えてみたいと思います。
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日産・内田誠社長と本田・三部敏宏社長 日産HPより
日本がバブル崩壊以降、世界の中で存在感を少しずつ後退させてきたのは偽りない事実だと思います。いろいろな理由は思い浮かびます。中韓の台頭による競争激化は一つあったと思います。その間、日本の経営という点を外から見ているとバブル崩壊での失敗経験が企業経営を保守化させたと思います。その上、ものごとを決めず即断即決ができない、社内の力関係で足の引っ張り合いをするということから新規事業に対するリスクを必要以上に捉え、また完璧主義的な発想が開発競争ににおいて出遅れてしまったこともあります。
あまりよい例ではないのですが、カナダにいると日本ではやっているもの、特に飲食業界のようなBtoC系のアイディアは瞬く間にパクられるケースがあります。パクリの点では韓国系はすさまじく早く、本家日本のアイディアが紹介される前にあたかも自分たちのアイディアという感じで商売をするケースもあります。中華系はその資本力に圧倒されるものがあり、日本的でありながら大した商品でもないのに全世界市場に広がっているものもあります。
一方、アメリカを含めた北米市場を見ているとまずは資本力、そして商品開発への斬新さとスピード感、チャレンジ精神はすさまじく、まさに戦争という言葉がふさわしいのだと思います。そのような過激なビジネス競争が展開される中、日産の経営は常に内部統制がメインテーマであったように感じます。
日産の本質を探るには私は60年代までさかのぼらねばならないとみています。プリンスの吸収合併が1966年。社長は興銀出身の川又克二氏。ただ左派系のプリンスとの合併を実質的に承認したのがのちの「天皇」と称される塩路一郎氏であります。ここから川又、塩路コンビの蜜月時代となり、のちに日産が混迷を深める第一歩にもなります。そして77年にたたき上げの石原俊氏が社長になり日産のグローバル戦略が展開されます。ここで川又氏、塩路氏、石原氏は激突、この三者対決は最終的に石原氏が勝利し、石原氏が天皇の座を継承するのです。川又派、石原派、塩路派の闘争は6年近くに及んだとされます。塩路氏が戦いに敗れ退職したのが87年です。