アメリカは世界の警官ではないという話は民主党のオバマ氏からスタートしているのに、USAIDはどうなのよ、ということかと思います。アメリカが地球を救うではなく、世界が地球を救うでしょ、という立場に立てばトランプ氏の考えのように「アメリカのポジションはもっと小さくてよいだろう」とも言えます。ただ、金儲けだけをするアメリカ株式会社が良いのか、その稼ぎを地球に再分配する余力こそ、アメリカを強くするのではないか、という議論はまだ進んでいないと思います。ここをもう少し揉んでもらいたいと思います。

同様の揺り戻しが「多様性 公平性 包括性(DEI)」問題です。これぞ民主主義議論の根幹に近い部分でしょう。ただこれはトランプ氏就任以前の23年6月の最高裁の判決、黒人など人種のバランスを考えた大学入学枠への違憲の判決がきっかけだったとみています。アフォーマティブ アクションへの試練です。要は行き過ぎ、やり過ぎへの社会全体の警鐘であり、ここは一旦フリーズして考えてみよう、というわけです。

同じようなケースは日本にもあります。2019年の医学部入学試験における男女格差問題、あるいは歌舞伎町の東急歌舞伎町タワーにおけるジェンダーフリートイレ問題はご記憶にある方も多いでしょう。前者は修正され、それ以降、医学部女子が大きく伸びました。後者は数か月後に撤去される事態になりました。受け入れるものは受け入れるが、まだ踏み込めない分野もあるといえます。選択的夫婦別姓制度の議論はその典型とも言えるのです。

民主主義は平等の精神にある訳ですが、平等を突き詰めても無限に平等には到達できません。最後は宿命、つまり生まれた時に与えられた自分が差別的だったという話にまで飛躍できるのです。私が時折、民主主義の暴走と思うのは今まで陽が当たらなかった人たちが反逆のごとく、権利の主張が行われる点です。古代ギリシャ時代から人間の生き方、あり方については何百年もかけて少しずつ改善改良してきました。が、男女差が本格的に意識、改善されるようになったのはせいぜいこの50-70年程度ではないかと思います。それでも確実に改善されてきているのです。ただ、一部の人たちがその次のレベルの改善を急ぎすぎるあまり歪ができるのだと考えています。