チェック対象となった投稿の画像では、こうした背景となる考え方・矜持・覚悟・美学といったものがまったく書かれていないため、「切り取り」とは言えると思います。新谷氏へのやや不当な評価を誘発し、悪魔化しようとする気配も感じるため、まったくもって同意しかねる内容です。

しかし、「誤り」とまで言えるのでしょうか?

結局のところ、「最悪の結果が起こることが容易に予期されたとしても書くことはある」と明確に発言しているのは変わらないわけですから。

JFCへの文藝春秋の回答の中では「記事が対象にどのようなダメージを与えるかは予断を許さないが」とは書かれていますが、最悪の結果が起こらないように表現等を注意する、無用な攻撃が発生しないように気を配る、記事の社会的影響を考慮するといった内容がまったく含まれていないことが、文春の姿勢を物語っています。

自社の中での納得の話で完結していて、対象者への無用な影響の低減・排除の要素は無視されているじゃないですか。そうした考慮が無いなら、「結果的に自〇するならしょうがない」と何が違うのか?

確かに、記事の見出しや本文、挿入された画像によって、当の本人を含めた読者が、どのような行動に出るのかは予測不可能です。

しかしですね…文春レベルになれば、どのように書けばどのように相手が嫌がるか、とか、読者が釣られて対象者に怒りをぶつけるか、とか、他社の後追い報道も含めた社会の言論空間がどういう方向性に向かうのか、ある程度分かってるくせに。

そうした要素は、この弱小ブログを書いてる私ですら、考えを巡らせているのに。

それが見えなかった以上、この話を「誤り」と切り捨てるのは、あまりにも実態と異なる評価ではないでしょうか?

文藝春秋本人やファクトチェック機関を名乗る団体による評価ではなく、まさに、社会が評価を下す事柄でしょう。

編集部より:この記事は、Nathan(ねーさん)氏のブログ「事実を整える」 2025年2月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「事実を整える」をご覧ください。