これまで弾薬の具体的な数量に言及しなかった武田軍が、このような指示を出した背景には、織田軍の絶え間ない弾幕に屈した体験が刻み込まれていたことでしょう

鉄炮玉の調達状況もまた、両軍の明暗を分けました。

長篠古戦場から発見された鉄砲玉を分析した結果、織田家は日本国内だけでなく、中国、朝鮮、果てはタイの鉱山からも鉛を輸入していたことが判明しています。

一方、武田家は渡来銭を鋳つぶして銅製の鉄砲玉を作るほど、玉薬確保に苦心していました

先述した鉛山も正確な時期はわからないものの、遅くとも長篠の戦いの直前には徳川家に奪われており、十分に弾丸を用意することができなかったのです。

織田信長は京や堺を掌握し、南蛮貿易や東アジア貿易の恩恵を受けていました。

その経済基盤が、鉄炮と玉薬の豊富さを支えていたのです。

一方、内陸国である甲斐(現在の山梨県)や信濃(現在の長野県)に根を下ろした武田には、その恩恵は届きにくかったです。

さらに信長は、武田や北条といった敵対勢力への経済封鎖をも行ったとされています。

 

こうして見ると、長篠の戦いは鉄砲対騎馬といった図式に収まらず、弾丸の数の多寡といった構図であることが窺えます。

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参考文献

新潟大学学術リポジトリ
https://niigata-u.repo.nii.ac.jp/records/25174

ライター

華盛頓: 華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。

編集者

ナゾロジー 編集部