金山の経営はと言えば、領主が直轄する例は少なく、山主や山先がその所有者となるのが通例でした。
上杉謙信は越後や佐渡の諸鉱山から上納金を受け取り、武田信玄も甲斐や信濃、駿河の金山から同様の収益を得ていたのです。
しかし、例外的に信玄は他国の津具鉱山(現在の愛知県北設楽郡設楽町)に奉行を送り込み、稼業を直轄した例もあります。
技術の革新もまた、この時代の金山を輝かせました。
唐から伝わった鉛灰吹法という冶金術は、石見銀山を皮切りに日本各地へ広がり、鉱山開発を一段と発展させたのです。
炭火とふいごで鉛を解かし、金銀を分離するこの技法は、骨灰を使って鉛を蒸発させる二段階の手法を伴い、金銀塊を精錬する画期的な技術でした。
このようにして、戦国時代の金山は技術革新と人々の情熱が織り成すドラマの場となり、山々は煌めき、歴史に刻まれたのです。
まさに、土と炎が創り出す戦国の黄金劇場といえるでしょう。
地下資源を巡った戦争もあった戦国時代

このように戦国時代は金山の採掘がおこなわれていましたが、採掘が行われていたのは何も金山だけではありません。
たとえば1543年に鉄砲が伝わり、その後各地で鉄砲の製造が行われるようになりました。
しかし当然ですが、鉄砲を撃つためには鉄砲に込める弾丸が必要であり、そのため弾丸の材料になっている鉛の需要が高まりました。
鉛は融点が低いおかげで丸く整形しやすく、重いため風にも流されにくいこともあり、その安定感と扱いやすさから、弾丸の材料として好まれていたのです。
また先述したように当時の最新の技術では金や銀を錬成するためには鉛が必要であったこともあり、金山や銀山を保有している大名の鉛の需要は高まりました。
そのため武田信玄など、戦国を彩る名だたる武将たちは、領地を越えて鉛鉱山を奪い合ったのです。