その信玄が手に入れようとしていた鉛鉱山として知られているのが、今の愛知県鳳来町大野にあった鉛山です。
この地には修験者や鉄山師が鉛を採掘していました。
その中でも名を挙げるべきは、小林三郎左衛門尉の一族。
彼らが鉛鉱山を掘り当て、その技術を駆使して鉛を採掘していたのです。
この「鉄山師」という言葉、いかにも戦国時代らしい響きであります。
鉄や鉛に人生を賭けた人々がこうして名を残しているのだから、当時の鉛の重要性がどれほどのものだったかが伺えます。
さらに武将たちは、名刀を鍛える技術を求め、優秀な刀鍛冶を新たな領地から連れ去り、自国で刀槍を製作させました。そして刀の手入れには欠かせぬ砥石もまた重要な資源であり、その産地を巡る争いも熾烈を極めていたのです。

三河で採掘されていた三河白などが有名であり、この砥石で研ぐことで切れ味のいい刀や槍を作り上げていました。
こうして戦国の世は、武器と資源、技術を巡る熾烈な争奪戦によって動かされていったのです。
武田信玄が晩年に行った遠江・三河の遠征の主目的についてはいまだに議論は分かれていますが、先述した金山や鉛鉱山、砥石鉱山の確保が主目的であった可能性はあり、そうでなくても地下資源の確保は重要な目的の一つであったでしょう。
鉄砲ではなく弾丸の数の差であった長篠の戦い

余談ですが1575年の長篠の戦いは、織田・徳川の連合軍が鉄砲を用いて武田騎馬隊を破った戦いとして語り継がれています。
しかし当時の武田軍も鉄砲隊を抱えており、もちろん長篠の戦いにも従軍していました。
では、両軍の違いは何だったのでしょうか。
織田軍が長篠で見せつけたのは、鉄砲の数以上に、弾薬の「豊富さ」でした。武田勝頼は長篠の戦いの後、「鉄炮一挺につき二〜三百発の玉薬を備えよ」と指示を出しています。