仮に子どもがXとYの2つの名を付けられ、ある時はX、別の折にはYと呼ばれるとしたら、どうであろう。この方面の素人ながら、自己認識が混乱し、アイデンティティ形成にダメージを与えるに違いないと想像できる。

名前は、人と社会を結ぶ「インターフェイス」であり、その人の全人格と一体化し、決して切り離すことができないアイデンティティのコアである。従って、アイデンティティの揺らぎは、人を不安に陥れ、心を不安定にする。

子どもと違い、人格形成の出来上がった成人に重大なダメージを及ぼすことはないかもしれない。しかし、仕事と家庭、地域の全存在からなるものこそが「私」であり、いずれが欠けても「私」ではない。長期にわたる2つの姓の使い分けは、「私」の存在意義に揺らぎを惹き起こすのではないだろうか。

選択的夫婦別姓は、不自由さや不便さだけでなく、社会的存在としての人の尊厳を護るという観点からも議論してもらいたい。