1月20日に放送されたNHKクローズアップ現代「令和のいま“苗字”を考える」に登場した北海道の医療大学に通称名で勤務する女性教員は、論文も通称名で発表でき、また事務的にも大学の手厚い協力があるので、不自由や不便を全く感じていないばかりか、2つの名前の使い分けをむしろ楽しんでいる様子であった。
私事で恐縮であるが、かく言う私も、通称名と戸籍名を使い分けるようになった当初、芸能人にでもなったような、ちょっと浮かれた気分になった。ところが、仕事で多少ながら業績を上げ、職業人としての自信と誇りが増すようになるにつけ、使い分けが自分の中でどうにも収まりが悪くなってきた。
たとえば、税金や社会保険料は通称名によって稼ぎ出した給料から納めているにもかかわらず、その名義は給料とは関係のない戸籍名、仕事の実績を蔑ろにされたようで何だか釈然としない。
職業人としての自己は私の中で大きな部分を占め、私のアイデンティティにとって絶対に切り離すことができない部分だ。戸籍名を名乗らなければならない時、職業人として社会でそれなりの地歩を築いている自分が無視され、アイデンティティを半分喪失したような気分になって、苛立ちを覚えるようになった。
2つの姓の使い分けは、どっちの姓を使っていたのかうっかり忘れることがたまにあるものの、行為としては難しいことではない。だが、心理的には鬱陶しく、気分をドッと落ち込ませてしまうものなのである。
こうした感情は、得てして気持ちの持ちようとか、考えすぎ、はたまた捻くれたエゴイズムだなど捉えられ、軽視されがちである。しかし、果たして取るに足りない事柄として一笑に付すことができるだろうか。というのも、名前は人が社会における自己の存在を自認するための言わば証明書として機能するからである。
たとえば、子どもが生まれると何をおいても名前をつける。名前は家族にとって子どもを唯一無二、かけがえのない存在として認識するための記号となる一方、子どもも自分に呼びかけられるその名前を通して自己を認識していく。