これらの行為は、儒教的復讐観の中で死者の身体を破壊することでその魂の再生を阻止する、いわば「究極の打撃」を加える意味があったとされます。

一方後者の例については、ある人が父親の敵であった人物を刺し殺し、その人物の心臓や肝臓を取り出して食べて、そのことを自首したところ、皇帝がこの行為に感心して罪を許されたという記録があります。

しかし、こうした習俗が唐宋時代を通じて普遍的だったわけではありません。

時代背景や民衆の心理が密接に絡み合い、時に誇張され、時に史実として刻まれたものです。

いずれにせよ、この忌まわしき行為は、その時代の社会的緊張や憎悪の深さを反映する鏡のようなものでした。

乱世には人肉愛好家も現れた

朱燦、ちなみに彼は人間の味について豚肉のような味であると語っている
朱燦、ちなみに彼は人間の味について豚肉のような味であると語っている / credit:Wikimedia Commons

また復讐や憎悪表現で人肉を食べるものだけではなく、中には人肉を好んで食べるものもいました

例えば隋末唐初の群雄・朱粲(しゅさん)は、「美味なるものを味わうに、人肉に勝るものはない」と公言し、戦場で人肉を食すことで兵士の士気を高めたとされます。

五代十国時代の趙思綰(ちょうしおん)に至っては、人胆を酒に溶かして飲み、「これを飲めば胆気無双」と豪語する始末。

北宋の王継勲(おうけいくん)に至っては、給仕の子女が気に入らないと即座に殺し、その肉を口に運ぶという、残虐極まりない行為に及びました

こうした人肉愛好者たちは、「残忍」や「暴虐」といった言葉で形容されることが多く、文学的教養が欠けた武将たちの野蛮な所業とみなされています。

しかし冷静に彼らの背景を振り返ると、官僚や文学に通じた者も含まれているのです。

たとえば、宋代の柳開(りゅうかい)は優秀な官僚で文学の才に秀でていたが、それでも人胆を薬と信じて食したとのこと。

唐宋時代の人肉愛好者は、戦乱期や飢饉時に生じる食料不足や、迷信的な信仰、あるいは単なる残虐性の発露として記録されています